「コミュニティスペース」の欺瞞と「みんなで一緒に」のはなし

結局のところ、 「みんなで一緒に」がいいよね、と思い始めたら 「みんなで一緒に」ができる人しか残らないんじゃないか。 という疑問から話を始めてみたいと思う。

僕はかつてバーみたいなところでアルバイトをしていた。 (空間は非常に狭く、カウンター席に座れば 他のお客さんとの距離は驚くほど狭かった)

わいわい話すのが好きなお客さんもいれば、 一人でじっとスマートフォンを眺めているお客さんもいた。 さまざまなお客さんが同時に存在するなかで、僕は

「同じ空間を共有しているのにも関わらず、 同じ会話に参加していない状況」

というものになんとなくばつの悪さを感じていた。 そこに、自らの「おもてなし能力の欠如」のような ある種の後ろめたさはあった。 「後ろメタファー」だ。

その自分の「後ろめたさ」を埋めるかのごとく、 僕はみんなと一緒“じゃない”お客さんに 結構頻繁にずけずけと声をかけて 「みんなで一緒に」会話に参加できるように仕向けてみた。

そんな自分に、何故か“無敵感“に近い有能感を感じていた。

もちろん、それによって 実際にそこのお店と、 そこにいた他のお客さんが好きになった人も いるかもしれない。

だけれども、 「ほら、“みんなで一緒に”話ができれば、楽しいでしょう?」 という態度で接することで、

(その時僕は確かに 「本当は会話に入りたいのに入れない個人」の存在を 措定していた。真意も知らずにそう仮定するのは、 ちょっと傲慢な態度だ。)

「みんなで一緒に」を好まないけれども ただ、誰かがいるところで過ごしたい、 もしくはちんまりと飲みたいと思う人の、 純粋な「独りの望み」や「静寂の望み」 を排除してしまう可能性は、否めない。

そんなことを、最近になって思ったのだ。

結局、「みんなで一緒に」を掲げるのは ある種管理者やリーダー側の抱きたい 「まとめている感」からくる 自己有能感につなげたい自己愛的な側面があり、

もしも、「みんなで一緒に」の向こう側、すなわち 「みんなへの“オープンネス”」を掲げるならば、

「みんな一緒がいいよね」という価値観に基づいた声かけや 「本当は会話に入りたいのに入れない個人」という見方をやめて

会話に参加せずスマートフォンを眺めているのも 一つの在り方だし、

社会性の“小さい”趣味 (つまり、層を限定するような、万人受けしない趣味) を持つ人を

むやみに自分の都合で「みんな一緒」にまとめないで 「へぇ、そういう感じなんだね。いいじゃん」 「自分から話しかけないのは、 そこまでして話しかけたくないから、話しかけないんだよね」 と相手をありのままに見ることができないことには、

きっと 上手に「みんなで一緒に」を 受け入れられる器用さを持つ人しか、 残らないのかもしれない。