対人コミュニケーションと「答え合わせ」のはなし

対人コミュニケーションにおける

いくつかの場面を想定した

「セオリー」のようなものが頭にある。

頭にある「セオリー」は「セオリー」として、

その場その場で出た自分の言動が

その瞬間における自分の「答え」だ。


自分の持っている「セオリー」と

実際の対人コミュニケーションにおける

実際の自らの言動を振り返り、重ねる作業のことを

僕は勝手に「答え合わせ」と呼んでいる。

「答え合わせ」をする中で、

僕はよく「間違い」に気付く。

それも、結構な頻度で。

(もちろん、

「セオリー」はあくまでも「セオリー」であって、

実際のコミュニケーションはケースバイケースだから、

いくら自分に問うたところで

真の「正解」というのはないんだけれども)

まだ「セオリー」を真の自分の感覚にまで

落とし込めていないことを、時々反省する。

それだけならまだいい。

後になって

「(その瞬間は気づかなかったけれども)

自分はむしろ失礼なことを言っていたのでは?」

と気づくことがしばしばある。


しかし、埋め合わせとして「謝罪」をする、

というのもおかしな話だ。

明確なコンフリクトとして出現しない限り、

コミュニケーションにおける主観的な「失敗」は、

謝罪をしてはじめて、それが「罪」になるからだ。

この手の「失敗」は、

謝罪をしなければそもそも「罪」ではないのだ。

(ひょっとしたら本当に失礼だったかもしれない!

と思っても、基本的には、

放っておいても相手の優しさによって

時間とともに忘れ去られてしまうもの。

平たく言えば、

「過ぎたことを気にしてもしょうがない」

ということ。)

下手に相手の気持ちをソンタクして

先回りして謝罪するような人間関係は、

それはそれで慇懃無礼で気持ち悪い。

「じゃあ、どうにかしてくれるのか?!」

「スンマセン、謝っただけです。。」


それならば!

せめて、自分ができることといえば、

(なんだか道徳を説いてるみたいで面白くないが)

小さなことでも、

他人のしてくれたことに気づいたり、

他人のしてくれたことを思い出したり、

実際に口に出して「ありがとう」と、

感謝の言葉を言うことくらい。

それで自分の心が晴れたらいいな、

その結果あわよくば、

相手の心も晴れたらいいな、

くらいにコッソリ願っている。


こういうのって、

案外悪くないんじゃないか、と思う。

「良い」とまで自分で言うつもりはない。

ただ、意外と悪くないんじゃないか、

くらいには思っている。

今日も今日とて、

僕は懺悔の気持ちをノートに記し、

眠りにつくのである。