「いいことしてやったぞ競争」のはなし

医療や福祉、その他対人サービスは得てして 「いいことしてやったぞ競争」に陥りやすい、 と僕は思っている。

「いいことしてやったぞ競争」下では、

「自分の施した“いいこと”は、 職務として規定されたものではなく、 あくまでもボランタリーなものである」

という意識が前提として横たわっていて、

その成果(つまり、相手の反応)が 自己の人格の優れた結果と結びつけられやすく、 なまじ「やりがい」につながってしまう。

そこから得られた自己肯定感が 競争のもとにどんどん膨らんでいくと、 どんどん自分がスタンダードになり、

自己の正しさ「自分はこんなにやっている」 他者の誤り「自分のようにできていない」

にばかり目がいくようになる。

そういう状態にある人々は、 他人に「いいこと」をしてやることに 自分の存在意義を預けているので、

任せておけば 勝手にいろんなことをやってくれるのだから

(いや、厳密には 「やってサシアゲないと、自己を認められない」から)

うまく立ち回りさえすれば、 たくさんのことをやってもらえるのだが、

同時に その競争に参加できない/しない人々との間に ものすごい温度差が生じる。

一部の人々にとっては、 どんどん「他人事」になっていく。

(温度は高い方から低い方にしか流れないのに、 「温度を上げろ!」と高圧的になるのは たいてい、ヒートアップした側だ!)

こういった 職務の範囲が曖昧な状況下の人々こそ、 「いいこと“される側”」の人々から 精神的に自立していなければ、

つまり、「きめ細かいサービス」を口実に 必要以上に介入しなくても、自分はそこに いつでも頼れる存在として“ある”ことにこそ、 価値があるのだ、と悠然と構えていなければ、

職場を同じくする同僚との関係が、 どんどん悪くなっていく。

機械でない、人間に残された、 “低付加価値”の仕事の時代にあって、

「いいことしてやったぞ」の 表明や競争に頼り切らない、精神の自立こそ、

僕たちが既に直面している課題であり、 これからますます厳しく僕たちに迫り、 問いかける課題だ。