やることがなくて怒るひと・植松死刑囚の主張・コロナ禍は繋がっている

   「やることがなくて怒るボランティア(もしくは「気付き」によってなんでも「役に立つ」ができるボランタリーなワーカー)」「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.と「やまゆり園事件」における植松死刑囚の主張「社会的に役に立たない人間はいてはいけない」は多分、地続きだ。植松死刑囚の死刑を容認してしまうことがその主張を完全否定できないことをそれぞれの中に証明してしまい、それと同時に人々は自身についても「社会的に役に立たない人間はいてはいけない」という考え方に苦しんできた。そしてそこにコロナ禍における「社会的に役に立つことが難しい」状況がトドメをさすように訪れた。その結果、今後(もう既に)現代人の公正世界仮説信仰があらわになり、平然と他者を蹴落としたり、差別心をあらわにしたりする出来事に人々が出会すようになる、と考えている。公正さを部分的にでも捨てるのは納得がいかないかもしれないが、僕たちは今一度「社会的に役に立つ」を考え直す必要に迫られているように思う。


「やることがなくて怒るボランティア」と「植松死刑囚の主張」は共にそれぞれ「社会的に役に立たない人はいてはいけない(これを最後まで煮詰めると「殺しても良い」というところ:優生思想までいく)」と言う点で繋がっている。ある日、郵送物を三つ折りにし、封筒に入れる作業を一緒にしていた近所の子供にさえ「オカくん、手が止まっているよ」「サボっているとみなされると、会社をクビになっちゃうでしょ」とひたすら手を動かすように指摘されてしまった。そこにも、「役に立たない人間は、存在してはいけない」の芽の存在を認めてしまい、ドキッとした。

  植松被告(当時) の死刑判決を「そりゃ、そうだ」と考え、明確なロジックでもって完全否定できなかった多くの人が大なり小なり「社会的に役に立たない人間はいてはいけない(殺されても仕方がない人間がいる)」と考えているはずだ(そしてそれが植松死刑囚のロジックそのものであることを突きつけられた人々の心に大きな影を落とした)。それと同時に「社会的に役に立つ人間は、存在して良い」という公正世界仮説(人間の行いに対して公正な結果が返ってくる、というもの)に基づく考え方を信じながら、そもそも何をもってして社会的に役に立っているかの明確な基準が存在しない中で、人々はとりあえず善(い行いをするように見える)人であるように努め、「社会的に役に立っている」実感(及びそれを満たしてくれるための作業・仕事)を、実は生活の糧としてのお金以上にひたすら求めてきたのではないだろうか。

 

   植松被告の死刑を完全否定できなかった人は「社会的に役に立たない人はいてはいけない」という考え方を、言葉にしているかどうかは別として、多くの人が心のどこかに秘めていると思う(そうでなければ、やることがなくなったからと言って不安になるわけがない)。しかし、コロナ禍では社会的に役に立ちたくても立つことができない(難しい)。それでもなお「自分が社会的に役に立っているかどうか(ひいては、役に立たないものとして排除されないだろうか?)」という疑問を自らの中に強めてしまい、大変な不安が起こる。コロナ禍で人々が「植松死刑囚の主張」に大変苦しむ。それが表出し、増幅する。より一層、様々なレッテル貼りによる差別が横行することが予想される。

    コロナ禍で多くの人が「(これまで通り)社会的に役に立ちたくても立つことができない」状況にある。本当は無駄だとわかっていた(わかっていながらも、それが人の存在理由的なものと承認欲求を満たしてきた)仕事がどんどん炙り出されたからだ。対面でのやりとりが憚られるようになったからだ。そんな状況で、人々がわかりやすく「社会的に役に立てる」方法はずいぶん狭まってきたように思われる。それにも関わらず「社会的に役に立たない人はいてはいけない」という、植松の論理と地続きの考え方は、それが世の理だとばかりに人々の骨の髄まで染み込んでいて「社会的に役に立っている(実感の得られない)自分は存在してはいけないのではないのだろうか?」という不安とともに人々を襲う。公正世界仮説に基づく「存在していい理由が得られないのなら、それは自分が社会的に役に立っていないからだ」という考え方が、その不安に拍車をかける。

   それでもなお、自らの存在を他者からの承認に委ねている状態の人々は「それでも何か、役に立つことをしなければ」と「自分にできること」を努力して探し、それをディスプレイすることに躍起になる。その中でも特に公正世界仮説を信じている人々は、「もし、自分にできることを見つけられなかったのなら、それはその人の創意工夫・努力が足りないか、見つける能力が不足しているからである」「その結果、苦しむことがあれば、それは自己責任だ」などという考えに陥る。

   かくして、本当は新型コロナウイルスの感染拡大そのものが災いだったはずなのに、いつの間にか変化していたステージの上で、「社会的に役に立つ人間」「役に立たない人間」がふるいにかけられようとしているー自分が「役に立つ人間」の側でいるためなら、他人を平気でステージから蹴落としたり、新しいステージに「適応」できない/しようとしない他者に何らかのレッテルを貼り差別心をあらわにしたりするー人間の間での災が「感染・拡大」していく傾向が容易に予想できる。既に現れているかもしれない。

 

   「社会的に役に立たない人間は、存在してはいけない」及び「社会的に役に立てば、存在しても良い」という公正世界仮説に基づく考え方は、たしかに人びとを良い市民であることへと方向付けてきた面もあると思う。ただ、何をもって「社会的に役に立つ人間」かの基準は全く存在しない。仮に恣意的に作り出された基準が存在したとしても、実際に「社会的に役に立つ人間だった」たかどうかは、その人が死んでもなお、永遠にわからない。いくらでも「役に立った」理由、「役に立たなかった」理由を付与することができるからだ。コロナ禍で「役に立つようにディスプレイするのが難しい」ことがマジョリティの人々の目に映ったいま、我々は立ち止まり「社会的に役に立つこと」と「存在しても良いこと・存在理由」を切り離し、そもそも既存の「役に立つ」という概念自体を改めて疑う必要があると思う。