災害のあとたくさん寄せられた物品の数々を片付けていたら、9年前までタイムスリップした気持ちになった

   震災や社会的動揺がもたらした混沌とした状況は、きっとこれまで「(お金を払う)価値がある」とみなされなかったもの、「(価値の所在が不明瞭で)価値がつきにくかったもの」に価値を再び与えたのだろう。その名残を見て、我々が常に目指してきた「整った」世界では「価値のあるもの/ないもの」とがキッチリ分けられていることを痛感した。「価値あるもの」とみなされないモノや人々の営みが、「整頓」の過程で退場させられていく。そもそも、「整った」ピッチで戦うことを許してもらえないような寂しさも感じる。その寂しさは、「整った」世界を手に入れたことの副産物だ。

   混沌とした世界の中で、常にどうなるか分からない不安を抱えながら暮らしていくのと「整った」世界で、何となく明日を前提に暮らしていくのとどちらが良いかと、ポンと尋ねられれば、積極的に前者を選ぶ人はいないだろう。ただ、その残骸を見るにつけて、「価値のあるもの」としばらくみなされてこなかったものや、混乱と不安のなかで人々が、「ひょっとして、こんなもの、こんなことにも価値があるんじゃないだろうか?」と鉱石を掘るがごとく胸を躍らせ、むしろ生き生きと活動していたことを窺い知る。

   しかし、もう誰もいない。みんな、“価値のある” 本業に吸い戻されていった。“価値のない”ことをやっている暇など、ないからだ。明日、明後日、その先と、次々に“前提の”未来がやってくるのに、不安のままでいて良い、などとは思わないからだ。

 

追記:

希望がないわけではない。当時は、分かりやすい「困った人」の存在があって、分かりやすい「助ける理由」が存在していただけだ。本当に必要だと感じたら、ちょっとの恥を忍んで、小さいことから隣の人・目の前の人を助けることができる。たとえそれが空振りに終わったとしても、自分でその必要性を感じたことを、たとえ他者からの承認を得られなくとも、確かに大事にして、実行した。その事実が自分の中に残る。その積み重ねが、孤独の中の自信につながっていくと思う。ブームに乗っかる他人がいないからこそ、だ。