「なにもしない」罪悪感
自分が何かを「やってしまった」ことによって
多かれ少なかれ、罪悪感を抱くことはしょっちゅうだ。
一方、どこかで読んだ記事によると、
「なにもしない」罪悪感というのがあるらしい。 その記事では、医者の例があげられていた。
たまたま苦しんでいる人に出会ったとき、
患者を救うことができたかもしれないが、
何か事情があって、何もせずその場を立ち去った、
的なものだったと思う。
そしてその患者が救われなかったと知ると、
激しい罪悪感に苛まれたという。
上の例はかなり稀なケース。 ただ、「なにもしない」ということが非常に難しい、
ということはそれほど珍しくない。
とくに教育(学校であれ、職場であれ)の現場において、
「より良い方法」や「トラブルを避けられる方法」を
知っている人や指導者が、それも反射的に、
ついつい口を出してしまう、というのがよくある。
基本的には「自分がやったことに対しての結果を自分で受ける」
という方が学びになる、と僕は信じている。
自分で考えてやってみたことで、
実際に痛い目を見たとしても、それはよっぽど本人の学びになる
という具合にだ(その「痛い目」の程度の差こそあれ)。
もし、反射的についつい口を出すのが
「その監督責任を問われたら面倒だ」
という類いのもの=保身
であれば、教育ではかえってマイナスだと思うが、
もしも、「なにもしなかった」ことによって
自分の愛する誰かが大きな痛手を負ったりしたときに、
「(口を出して止めることが)できたのに、やらなかった」
という罪悪感に苛まれるのを避けたい
という心理が働くのも、(突き詰めれば保身なのだろうが)
なんだか一理あるような気がしてしまう。 でも、大人は異口同音に言う。
「失敗しないと覚えないから」と。
やっぱり、経験が一番の学びってことジャネーカ!
ならば、あくまでも本人に気づかれない部分で、
致命的な部分だけ、取り除けばいいのか?
じゃあ、その致命的な部分ってなんだ?
いや、以外と、少ないのかもしれない。
それに対して自分が無理なくやれることだけやったら、
さあ自分の心配をしよう。 追記
それか、そういう罪悪感に苛まれたくなければ、
究極は、そもそもある程度までいったら
できるだけ監視下に置かないこと。
いつから?
自分でやりたがり始めたら。