「多様性」について

 「世の中には色んな人がいるからねぇ」と誰かがつぶやくとき、そこには大抵ネガティブな意味合いがある。「思いもよらない(“多様な”)発想から文句をつけてくる人がいる」(だから、それはやめておけ)という具合にだ。このネガティブさが、多様性の本質を表しているようにも思う。

 

 朝井リョウ『正欲』という本を読んだ。そこには「多様性」についてこんなショッキングな表現がある。

「多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。」

 多様性の実現が「良いこと」だとされていることは承知している。それなのに、それが叫ばれるほどに実現していないということは、「多様性」、それもまた不都合な要素を含んでいると考えられないだろうか。そしてそれを我々はよく考えてきただろうか。

 

 オンライン飲み会をするようになってか、「大学の友人と話をするのが一番楽だ」と思うとき、「ある意味で多様でない」集団がいかに心地よいかということを、無意識的に思い知っている。その集団において称賛されうる「多様性」は、きっと他人に危害を及ぼすことがない範囲において表出されるものだ。

 いくつかのセレクションを経て集まった、しかも「国境を越えること」「新しい発見をすること」を目指した集団(外国語の大学)なのだから、その成員が「多様性を(イデオロギー上)尊重する人々が集まっている」という点においては多様でない、というパラドックスがそこにある。

 

 そう考えると実は、選抜を経ない人々の集まりである地域社会こそ、多様な人々の集まりだと言うことができよう。しかも、その集まりからは簡単に逃げることができない。「人々の間に多様性があるからこそ、気持ちよく過ごすための『約束ごと』として、みんな平等に「自分」の表出を極力抑えましょう、と自他に要求した」と考えることはできないだろうか。「地域の閉塞感」があるとするならば、そこに由来しないだろうか。

 また、「おなじ日本語話者でありながら『対話』すら通用しないかもしれない多様な人々が近くに住んでいるからこそ、人々は人間関係を希薄化させることをあえて選び取った」そんな風に考えることもできないだろうか。もし、現代社会について(抽象的な「むかし」とイージーな比較をして)「人間関係が希薄だ」と評価するならば、そこに由来しないだろうか。

 

 「多様性の実現」にはきっと、意志表明としての「多様性バッジ」を身につけているだけでは不十分だ。真の多様性実現のためには、「自分に何らかの害を成すかもしれない存在と対峙し、それでもそれを『普通は』という言葉でやっつけてしまうことなく、絶えず相手の事情を探り、時には対話に持ちこみ、その有害性になんとか妥当性を見出し、それでいてやはり分かり合えないということを承知しながら、それでも近くにいる」という、おおよそ誰も望まないであろう態度が求められれる。かといって、多様性のために自分が摩滅してしまっては意味がない。逃げどころを判断し、逃げる必要が生じることもある。

 それに対して「多様性バッジ」を身につけて、「私は(可視化された)“マイノリティ”を尊重します!差別しません!」と宣言すればよい、というような、ある種の「おめでたさ」を著者は作品を通して厳しく批判したのではないだろうか。