終わりなどはないさ 終わらせることはできるけど
昨日、パートタイムで働いていた会社を退いた。
今だから明かすのは、僕は2カ月ほど、
とあるホテルのウエイターみたいなことをしていた。
「もう続けたくない」と思った瞬間は、
「先輩の言うことは、黙って聞いておきなさい」
という風潮が、僕がこれから大切にしていきたい価値観と
著しく異なることを感じてしまったときであり、
その状況がまさしく四面楚歌だったと気づいたとき。
「もう行きたくない」
という強いストレスを感じたときだった。
(ここでは割愛するが、「先輩の言うことを~」というのは、
その現場の事情を考えればひとつの合理性をもっていた。
「その現場では」正しい方法なんだろうな、とも思った。)
「辞める」というとネガティブな印象を持たれがちなのは、
一般的に言われるのは日本では
「就『職』」というよりも「就『社』」意識に基づく
「メンバーシップ型」雇用が一般的だからだ。
●このattempt(試み)は「失敗」か?
確かに、僕はこの会社を「辞める」という選択をした。
ただ、 勤務時間に上限を設け、
手取り約 7万円で衣食住なんとかする、という試みは、
大成功、とまではいかなくともその通りなんとかなった。
実際に自分の時間をたっぷり取ることができて、
前々職退職前に友人に打ち明けた
「本を読みまくりたい」という願望も、
図書館が職場のすぐ横にあったこともあり、
中抜け(休み時間)を利用して読書にふけったり、
純粋にたくさん借りてきて読む時間ができた。
2カ月ちょっとで約70冊読んだ。
「職場選び」という点では、
僕の持っている「属性」が活かされることはなく、
マーケッティングに失敗したけれども、
この「非正規として、必要分だけ稼いで、自分の時間を」
という試みの成否は、正直言って、不明だ。
●「続けること」の神格化
僕は、大学時代まで「最後まで続ける」ということそのものに
こだわっていた節があった。
中学からそれまでもそうしてきたし、
高校のラグビー部を引退してからと言うものの、
「あの時の辛さに比べれば」という基準ができること、
それを達成した自分への自信が云々、という寸法だ。
かくして僕は「最後まで続けること」を盲信していた。
学校を卒業してからの「最後まで続ける」とはいかに?
その点、学生時代はよかった。
部活も長くて3、4年。
3年か4年居続けることに成功すれば、
「最後まで続けた」という「称号」が与えられる。
(「ドロップアウト」組は、ただその組織から離れただけなのに
なんだか腫れ物扱いされる、というのが僕の感想だ。
もっとも、離れた人はそれぞれの生活があるのだから、
もといた組織のことを心配する必要は全くない)
ただ、学校を卒業してからは?
一度就職したら「最後まで」は定年を指すか?
それとも、何かのプロジェクトが形になった時か?
「自分の人生、自分のありかたそのものを
試行錯誤しながら生きる」
ということそのものを「最後まで続ける」と思えば、
「所属」は一時的なものであり、
それは「自分のプロジェクト」でもあり、「試み」でもある。
「定年まで」ということ自体を目標にしていない限り、
いずれどこかで自分の手で「終わり」を下さなければならない。