「どの釘を、どれだけ打つか?」支援者が把握すべきこと
「金槌を手にしていれば、世の中全体が
釘の束に見えてしまうようなものだ」
とは、「支援者」の問題を的確に表した表現だ。
『人を助けるとはどういうことか』
という本にこのフレーズはある。
この本によると
支援者はクライアントのために、 自分の持てる関連情報や 専門的意見を探して提供するように依頼され、 権限を与えられる。 しかし、ひとたび任務を与えてしまうと、 クライアントは支援者が見つけ出す答えに 頼りきるようになる。 支援者のほうは自分が得意とするものを 何でも売り込もうとしがちである。
支援者は、支援者となった時点で
一つ上の位置におかれ、権限を手にすることになる。
自分の専門的意見(=金槌)とそれをふりかざす権限、
それら二つが合わさったとき、支援者は
もうそれはそこら中の「釘の束」
(=自分が解決できるかもしれない問題)
を打ちたくてしょうがない。
そんな状況に警笛を鳴らしたのがこの表現だろう。
もちろん、「釘の束を打つ」ことで、
支援者がアドラー心理学でいうところの「共同体感覚」
を得るきっかけになる可能性は十分にある。
それゆえ、(形の上で)
「誰かのために」「自分の金槌で」「釘を打つ」
という行為は、「居場所」を感じるための手段となり、
「打ち手」にとってはそれ自体が快感となる。
だから、「釘の束を打ちたくてしょうがない」
という気持ちは、十分に理解できるのである。
ただ、「支援」の本質は、
支援者の自己満足ではなく、
クライアントが抱えている問題を、
本人が解決できるように、
本人の望むところまで、限定的に、
手助けしてやることにこそあり。
だから支援者は、クライアントが
「どの釘を、どれくらい打って欲しいのか」
ということを繰り返し尋ね明確に把握する必要がある。
支援のゴールは自立である。
クライアントが支援者なしでも
できるようになった、そのときの笑顔を見たとき、
そこで初めて「共同体感覚」を得るのが健全だろう。
ただ、日本においてそれは
簡単なようで非常に難しい。
その原因をよくあらわしている言葉が
『「ひきこもり」考』という本に書かれていた。
「(日本では、)相手の状態を先に推測し、
行動することが礼にかなっている、と理解されている」
ウーム、この「先回りの支援」こそが、
日本のサービスにおける「小サプライズ的感動」を
生んでいるというのもまた事実であり、
そういうところに付加価値を求めてきた企業も多い。
ただ、そのための苦労で労働者が疲弊している
という事態に今の社会は直面している。
しかも、「疲弊してでもやりたい」のモチベーションとなる
希望もいまひとつ見えてこないのが現状だ。
やはり、「どの釘を、どれくらいだけ打つか」
ということを、
個別の必要性に応じて把握することが、
精神衛生的にはいい。