「下方比較」と抑圧の再生産のはなし

 自らの苦しみが「どのようなもの」か形容できなかった経験が、のちに他の誰かの苦しみに対して「そういうもの」などと宣って、考えることを抑圧することにつながることを考えても、言語化することの大切さを思う。

 去年の5月半ばに新聞に掲載されていた、公認心理師であり臨床心理士信田さよ子氏のコラムに「下方比較」と言う言葉があった。つまり「自分よりももっと苦しんでいる人がいる」(だから、自分は我慢しなければならない)という、自分の苦しみの表出と表現を抑制するものだ。

 もしも苦しみが言語化され、他者と共有されたならば、その苦しみは他者と連帯し社会を共に変えていく正のエネルギーになりうるのに対して、言語化されず抑圧された個人の苦しみは、苦しみの部分だけが共有され「そういうものだ」という現状維持の方向を向く、強く悪い連帯を生み出す。

 後者の連帯は、他者の苦しみに対してさえ「もっと苦しんででいる人がいる」「苦しいのはあなただけじゃない」(だから、我慢せよ)と言い放ち、抑圧を再生産する。

 職業人としての支援者が(賃労働規律に根付いた)このロジックに絡め取られるならば、それは社会的な大問題だ。様々な理由で「わたし」よりも苦しみに耐えられない被支援者の、自立を支援するどころか、その原因を社会ではなくあくまでも個人に帰することで、社会に蔓延る抑圧の再生産を、様々なリソースを割いて、わざわざ加速させる。支援の劣化に直結する。

 ここまでの話を拡大すれば、社会の再生産に関わる人間はきちんとケアされなければならないし、「お金を生まない=生産性がない」と言う暴力的なロジックに抗して、その苦しみを言語化・共有・連帯することで、社会から、社会のためにこそケアを引き出さなければならない。