強力な「先輩」「後輩」の関係は、それ自体が甘え

お互いに尊敬し、されるためにも

「後輩」という立場に甘んじるのを許さず、

「先輩」という立場に甘んじるのも、また許さず。


「先輩」「後輩」という関係には、

「面倒を見る」ことと

「決定権を得る」「体面が保たれる」ことが

正の相関関係にある。

「先輩」というのは、

「後輩の面倒を見てあげる」ことで

組織の「意思決定権」を握ったり、

不可逆的な「先輩」という立場に置かれ、

その体面が保たれる、という性質を持っている。

「後輩」というのはまさにその逆で、

「先輩に面倒を見てもらう」ことで、

組織における成長をサポートしてもらう代わりに、

組織の「意思決定権」は小さい。

ただ、自分も「先輩」になれば、

上記の不可逆的な「先輩」の座を得る。

そのシステムは一見してスムーズな流れだが、

非常に「残念」に見えるのはなぜだろう?


「(先輩である)自分は、正しく、

後輩は、あくまでも教育されるべき存在である」

というような考えが、「裸の王様」状態だからだろう。

「先輩」が例え独りよがりなことを主張していても、

本人はそれが正しいと信じてやまず、しかも

後輩たちはそれを指摘することができない。

「先輩」「後輩」という壁に阻まれ、

コミュニケーションができないばかりに

上手くいかないでいるのは、

きっと「こうすればいい」という案が

チームの中に存在するからこそ、残念だ。


その「残念さ」をいくらかでも解消する策としては、

先輩、後輩が、それぞれ自分に対して、

以下のような調整をすることが挙げられる。

先輩側としては、

『これだけは』という部分をやったら、

あとはできるだけ、面倒は見ない」

後輩側としては、

「先輩の許可を得ずとも、自分が現場として

正しいと思ったことを、自分の責任で、

(極力後片付けをする覚悟で、)やってみる」

という方向へ持っていくことだ。

そういう風に言うと、

「じゃあ、全く面倒を見なくていいのか」とか、

「全て自分で決定させればいいのか」とか、

かみつかれそうだけれども、あくまでも

「あれこれ面倒を見ないかわりに、自由にやっていい」

「あれこれ面倒を見てもらわない代わりに、

自由にやらせてもらう」

という方向へツマミを調整する、ということ。

「後輩」として何でも他人任せにしてもいけないし、

「先輩」として何でも自分ばかりが正しいと思ってもいけない。

「先輩」という立場があっても、ちゃんと一人の人間として

ハタラキを見せなければ、立場なんてない。

これは、度合いの問題だ。


 

「先輩」「後輩」はあくまでも関係性の問題。

上で書いたように、「教育」の行く末を

「支配」(決定権を奪う)ではなく、

「自立」(自分で決定し、自分で結果を受ける)

に持っていこうとするならば、

僕個人としては、

 

それぞれ、「先輩」「後輩」という

覆せない属性はあれど、

それでも、あくまでも「対等である」ということを

示していかなければならない。

相手が先輩であろうと時にはタメ口を交え、

相手が後輩であろうとタメ口を許可しながら。


僕は、こんなことを書いておきながら、

実は10年以上も運動部にいた。

だから、「後輩」や「先輩」の立場に甘んじることに、

無意識的に慣れ切ってしまっていたのだ。

「先輩」になった瞬間にぼくにまとわりついてきた

「自分は正しくなければならない」という意識は、

「後輩」として、「先輩は、正しい」と盲信し、

責任を感じずにいた時間の裏返しだ。

僕がこれまで

 

「後輩」とみなしてきた人たちの中にも、

例え競技の面では自分を越えなくとも、

(もちろん、自分より強かった人もいたよ!)

「競技力」「年次」という枠から外れたら、

驚くような実力を備えていたり、

ものすごいポテンシャルを持っている人もいる、

ということが、より見えるようになったし、

いつか、僕のこころから知りたいことを

ひょっとしたら彼らが持っているかもしれない。

そんなことを意識し始めたら、とくに

僕はかつての後輩にどんな顔をして

会ったらいいのか、まったく分からない。

どこかで「ごめんなさい」という気持ちすらある。