「下方比較」と「もの言えぬ苦しみ」のはなし

「傷つかなきゃいけないと思って、一生懸命傷ついてきたんですよ」

 最近、妻の勧めでくどうれいん著『氷柱の声』という小説を読んだ。この小説は東日本大震災における、いわゆる「大きな物語」にあてはまらず、本人が「言うほどじゃない」と思っているような個人の「小さな物語」をテーマにしている。それぞれの苦しさがありながらも、それらが「小さな物語」であるが故に、「もっと苦しい思いをしている人がいる」とか、「もっと世間やメディアから求められる物語がある」とかいう風潮に抗う明確な言葉を持ち合わせていなかったために、自分の苦しみを表明することができなかった、「傷つくことができなかった」人々の内面を鋭く描き出した小説だ。さまざまな形や大きさで凍ったままだった氷柱が、春の訪れとともに解け出して、ぽつ、ぽつ、と雫を落とすように、それぞれの苦しみもまた、ぽつり、ぽつりと表明されてほしい。それがまた、他の誰かを孤独から救うから、というメッセージを私は受け取った。

 

「下方比較」から「私は苦しい。これがいやだ」へ

 この、「もっと苦しい思いをしている人がいる」「だから、我慢しなくちゃいけない」というような比較について、昨年の5月16日の岩手日報の「現論」欄(日本におけるACやDV、母娘問題の第一人者である信田さよ子氏の記事)では「下方比較」として紹介されていた。記事によると、この「下方比較」は「『自分はこんなに我慢してるのにあなたは自己主張ばかりしてわがままだ』『被災地の人の苦しみに比べればなんでもない』という攻撃に容易に転換する」という。「『下方比較』によって沈黙した人が、また他の、もっと弱い誰かを沈黙させることで「現状維持に貢献するとすれば、なんて残酷なパラドックスだろう」。この記事は「『私は苦しい。これがいやだ』と正々堂々と表明すること、そうする人を支持すること、変化はここから始まると思う。」と締めくくられている。

 

「支援者」と呼ばれる人こそ晒される「もの言えぬ苦しみ」

 『氷柱の声』と「下方比較」の話を、「被災市町村出身でありながら、『傷つかなかったことで傷ついた』人」に重ねて読むこともできるが、私がこれらの話を通じてフォーカスしたいのはむしろ「もっと苦しい思いをしている」とされる人と常日頃から向き合っている(幅広区)「支援者」と呼ばれる人だ。「それが仕事だから」「社会的に意義のあることだから」「やりがいも得られるから」「お金をもらっているから」などという事実も相まって、「支援者」と呼ばれる人の方がより一層苦しみを表明しにくい圧力(しかも、自分の内側からも)、もの言えぬ苦しみに晒されているのではないだろうか。

 本当は、「あなたたちを支援することにも、さまざまな苦しみを伴う」と思うことが度々あるはずだ。その苦しみは、相手の心情に寄り添いたいのに「鈍感であれ」というメッセージに対する苦しみかもしれないし、頑張りたいのに、頑張れるような労働環境にない苦しみかもしれない。支援活動が、数字による成果主義的なモノサシで測られることの苦しみかもしれない。または、手を差し伸べたにもかかわらず、差し伸べたその手を噛みつかれる苦しみかもしれない。

 

「つながれぬ苦しみ」

 しかも、これらの苦しみの表明の先にはまた境遇の違いによる「つながれぬ苦しみ」も待ち受けているかもしれない。苦しみを表明したところで、繊細な人/鈍感な人/感じることをやめた人の間、成果主義に馴染む人/馴染まない人との間、その仕事の収入が、家計における主を担う人/従を担う人、差し伸べた手をとってもらえる人/噛みつかれた人の間には分断線が立ち現れる。ただし「もっと苦しい思いをしている人がいる」には全員が一致してしまう。この苦しみがまた、「支援者」の苦しみ表明をためらわせる。

 

小さなことから

 自分の苦しみに目を向けそれを表明していくことが変化につながるのだが、特に「支援者」にとって、それはこんなにも難しい。ただ、難しいということが分かっていれば、小さいことからしか始めることができないとわかる。小さな苦しみを、自分の内面を、それこそ氷柱が解けるように、ぽつりと表明することから始められると思えば、そこに希望を見出すことができるかもしれない。もちろん、簡単じゃない。氷柱を解かすにはどうしたらいいんでしょう。

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