「便利の代償」と「不便の価値」

「もしも、この橋やあのトンネルがなければ

向こう側にいく『理由』は存在しなかっただろうな」

先日国道を車で走っていた時に

改めて考えるまでもないことが頭に浮かんだ。

「できるのにやらないのが一番腹が立つ」

という類の怒りを漏らす人をみたことがあるだろう。

これは正論ぽくてかつ意思が試されているようで

非常に人々の心を揺さぶる文句だ。

もしも、携帯電話がなければ、

出先で電話がかかってくる理由が存在しなかっただろうし、

もしもノートパソコンがなければ、

仕事場以外で仕事をする理由がそもそも存在しなかっただろう。

橋やトンネルができてしまったからこそ、

「なぜ橋やトンネルを越えてこちらに来なかったのか」

という怒りと疑問が混じった考えが生じるし、

携帯電話やノートパソコンができてしまったからこそ、

「なぜ、出先で仕事をしなかったのか」

というかんがえが、自分にも他人にも生じる。

そこでいちいち

「やりたくなかったから」という説明をしなければならないのは

自分の意志が試されているようで結構な負担になる。

結局、できることが増えれば増えるほど、

それに応じた課題が降ってくるのであって、

楽になるどころか、どんどん複雑な問題に

生活が絡め取られていく。

それならいっそ、不便な方が。

と思えばこそ、不便の「価値」が見えてくる。