とても地味な「誠実さ」の話

【「いつまでも誠実でありたいです」?】

「君は、一生のうちに

『これだけはやりたい!』

ってことはあるのか?!」

そう聞かれたので、

「特に『これがやりたい』ってものは

ありませんが、ただ、

いつまでも誠実でありたい、

とは思っています」

と答えた。その場を後にしてから、

自分の口から「誠実でありたい」と

言ってしまったことに対して、

それが間違いなく本意からの言葉だと、

自分では分かっているものの、

釈然としない気持ちを抱えたまま、

僕は帰りのバスに乗った。


【「おれ、ウソつかないからさ!」?】

「自分は、誠実である」というのと、

「おれ、ウソつかない人間だからさ」

「先っちょだけでいいからさ!」

と言うのとでは、

たぶん同じくらい胡散臭さが漂う。

誰だって、大なり小なり嘘をつくことがあるし、

同じように、誰でも真面目でない瞬間が存在する。

「正直者かどうか」

「真摯な人間かどうか」

そんなのは、どちらかと言えば

しばらく付き合ってきた人から

結果的・客観的に判断されるものだ。

それに対して自分の口から

自分は、誠実でありたい」というのは、

「キレイゴトを抜かしやがって」

と誤解される危険性を十分にはらんでいる。

上の「釈然としない気持ち」はそこからだ。


【誠実であるための条件】

ただ、僕は自分なりに持っている

誠実であるための条件がある。それは、

「自分のやりたくないこと

(とりわけ、信条にそぐわないこと)やらない」

突き詰めて言えばこれだけだ。

それを極力守ることが「誠実さ」につながる。

さらに言えば、それを守った結果、

(自分の役割としての)「やりたいこと」が残り、

それに対して真心を持って取り組める。

(その「やりたいこと」が真のモノならば、

考えるまでもなくやってしまうわけだから、

自分が意識として守ってやらなきゃいけないのは

「やりたくないこと(信条に反すること)をやらない」

ことだけ、という寸法)。

ただしこの観点からの「誠実さ」とは

「キレイゴト」では片付けられないほど

難しく、非常に泥臭いものであること、それに加えて

誠実さを失うことから生じるマイナスについて、

「それでもなお」「だからこそ」誠実でありたい、

という思いについて、言い訳をしていく。

※以下、この文章において「誠実」という言葉は

「信条にそぐわない(やりたくないことを)

やらないこと」とほぼ同義として読んでほしい。


【①「誠実」を目指すことは泥臭い】

まず一つ、上記の条件から

「誠実さ」を目指すならば、孤独は免れない。

「(信条にそぐわないような)

やりたくないことをやりませんよ」

という意思表示をすることは、

「必ずしもあなたの言う通りになりませんよ」

と言うことに等しいからだ。

「は?バカ言ってんじゃねェ、

『なんでもやります!!』からが

スタートじゃねェかよ!!」

「社会に出たらねェ、

お金をもらっているのだから、

やりたくないこともやらなきゃいけないの」

そういうのももっともだと思うし、

それは「おかしいこと」だが決して

「間違っていること」だとは思わない。

しかし、そういう「教義」の下では

僕のような経歴のない若輩者はアッサリ弾かれる。

もう一つ、上記の「誠実さ」を目指すことは

「毎月のランニングコスト」という

おカネの部分と密接なつながりがある

「誠実さ」と聞けば

そのメンタリティの部分ばかりに目が行くが、

上記の「孤独」を受け入れやすいかどうかは

どちらかと言えば家計の状況が許すかどうか

という非常にグレーな側面によるところが大きい。

「おカネのために働かなければならないかどうか」

という度合いがどれだけ孤独を許すかどうかだ。

この度合いが小さければ小さいほど、

やりたくない(信条にそぐわない)

仕事までをも引き受けて、

我慢して現状に留まり、働く必要がなくなる。

奨学金のために背負った数百万の「借金」はあれど

(この件についていまは誰も非難するつもりはない)

誠実でありたいし、なるべく誠実さを

失わずに済むように、あくまでも生活は小さく、

しかしその中で確かな手応えを感じ、味わう感性を

持つことにシフトしてきた。

その中でほとんど外食もせず、

飲み会にも行かず、安いアパートに住み、

肉と言えば鶏のムネ肉で、

豚肉はたまに食べるちょっとしたぜいたく品で

月6000円で食費を賄うという生活が、

誰かに羨まれるものとは、全く思わない。

(もうちょっと昔の人たちは、

ある程度の経済成長が見えていたから

自己の発奮材料として高価な買い物をしたそうだ!)


【②「誠実さ」を失うことから生じる害悪】

「誠実さ」を失った結果、

「やらされごとを『頑張っている』のに報われない」

と思う人の気持ちが周囲に横柄な態度をとる

エクスキューズになってしまう、という問題が生じる。

「自分は、頑張っているから」

「汗水たらして苦労しているから」

「(我慢代としてもらった)

おカネを払ってサービスを受けているのだから」

そういう態度は

「報われない」という思いから生じるものだ。

結果、肝心の自分の「暮らし」における役割を

おざなりにしたり、

お店で不遜な態度を取ったりするようになる。

「報われない」というのは

きわめて主観的なものであるから、

誰かが解決してくれるものではない。

「報われない」という被害者意識のようなもの

が生じるならば、そこからは手を引かなければならない。

「やらなくて済む方法」を真剣に考えることにこそ

注力しなければならない。


【「誰かがやらなければならない」?】

「『やりたくないことをやらない』

そんなことを多くの人が言い出したなら、

仕事をする人がいなくなってしまうだろうが」

という反論が当然あると思う。

これは、その仕事が(雇用維持目的ではなく)

「世の中のために本当に必要なことか?」

をふるいにかけるチャンスだ。

もしも、それが本当に必要な仕事なら、

それによって困る人が出てくる。

仕事をしてくれる人がいないほど、

その人は困るのだから、

もしもそこに誰かが手を差し伸べたなら、

その手助けが役に立つ度合いは大きくなる。

そのことでより感謝されたり、

他の人がいないからこそ、

自らの裁量と真心をもって対応できる。つまり、

他の人がやらないからこそ、

他の人がやりたがらないということによって、

やりたい、と言い始める人が出てくるのだ。

冒頭で「(自分の役割としての)やりたいこと」

と書いたのは、そういうきっかけで

「やりたい」という気持ちが生じる可能性を含めてのことだ。


【おわりに】

「誠実さ」を目指すことは、

まったく「キレイゴト」ではない。

それどころかむしろ、

「やりたくないことを頑張ってやる」

「苦労することは、良いことだ」

とか、そういう類の言葉の方が、

よっぽど「キレイゴト」だ。

そしてその聞こえの良さばかりが一人歩きし、

どんどん受け継がれていくことには

歯止めをかける必要がある。

「孤独かおカネか」「質素か贅沢か」

「『やらされ』か『自主的な役割』か」

それら見栄えしないものの狭間で

うまくバランスを取りつつ、

それでもなお「誠実さ」を目指し続けたいのは

「誠実さ」という「完成」が不可能なものを

目指していく心のベクトルに従った結果、

「誰かの役に、チョットだけ立てたかな?」

という感覚に基づく「生きている」という実感

得られたなら、これほど心躍る瞬間はない、

というほどの多幸感を知っているつもりでいるから。

そのためにはやはりまず、できる限り

「やりたくないことは、やらない」

ということを避けては通れない。