「自分の時間は、掛け値なしに大事である。」

残業や、急な休日出勤をすることになったとき、

心のどこかで

「まぁ、その分お金出るしな」

と思ってしまうことはないだろうか。

実際のところ、僕はそう思っていたことがある。

ただ最近思うのは、

そう思っている限りはいつまでもお金と仕事の奴隷だということ。

そうやってお金を追いかけてどんどん長時間の「仕事」(とやら)に

時間を費やせば費やすほど、どんどん自分の時間はなくなっていく。

「予定がなければ仕事をして稼げばいい」

というのは「仕事」(とやら)をする自分以外に価値を見出していない、

また仕事以外の自分を信じない「生産マシーン」の言葉だ。

理由は理屈では説明できないけれど、

「自分の時間(=売っていない時間)は掛け値なしに大切だ」

そんなことを感覚的に思っている。


僕は去年の冬頃から、(「退職する」という選択が出た頃から)

自分に「いくらあったら満足か?」と問い続け、

その金額を「見える化」することに努めてきた。

「その」会社からもらえる給料にどれだけ依存しているかを

知るとともに、その会社からの給料、さらには

その会社への依存状態から脱したいと思っていたから。

ただ、「いくらあったらいいか」というのは、

つきつめて考えれば本当の意味ではっきりすることはない。

海外旅行に行っている時も、

その類の疑問が頭に浮かんだのを思い出した。

http://okagakiryoga.com/?p=576

海外旅行はちょっと特殊なケースだけれども、

上の記事で言及している例を挙げると、

付き合いの中でノリで遣ってしまうこともあれば、

自分が交通事故を起こしたり、身内が起こしてしまうかもしれない。

不注意で怪我をしてしまうこともあるかもしれない。

そうやって、「急な出費」というのは

程度の差こそあれ、避けられないもの。

だとすれば、「お金はあればあるほどいい」

と思ってしまうのは不思議なことではない。


「給料」という形で収入を得ている以上、

大体の場合は自分の時間を売ることでそのお金が発生している。

ただし、その「時間とお金」の関係において

「自分の時間(売っていない時間、

自分のコントロール下にある時間)は、

掛け値なしに大事である」

という命題を守るためには、

「僕は、これ以上のお金は必要ありませんから、

これ以上の時間は働きません。」

と自分を納得させるラインを持っておかないといけない。

これは、労働者側から見た

長時間残業防止につながる考え方だ。

社内制度や規定よりもよっぽど大事なのはこっちだ。

そうやって得た自分の時間をどうするか?と聞かれれば、

「その時間くらい、

自分の名前なんかどうでもいい『顧客』なんかに費やすのではなく、

自分を満たすことに費やし、その先に自分の名前を知っている人

(いま、大切にしている友人、恋人、家族・・・)

と一緒にいて、満たされた自分から放たれる

プラスのエネルギーでもって、彼らにチョット良いことをして、

あわよくば、彼らが満たされることを願うよ。

という返事を出しましょう。

すると、規模は小さいところからになるけれども

「会社の名前」ではなく、「自分の名前」のクオリティが

上がっていくように思いませんか。