ただ、そこには連続性がない。

「ただ、そこには連続性がない」

(これは僕のジレンマを語ったものである)。


確か今年の3月には、

両親の30回目の結婚記念日がやってくるはずだ。

思い出せば2年前、

僕が会社員として働きはじめるちょっと前、

結婚記念のオリジナルソングを作って、

それを引っ提げて東京・赤羽のライブイベントに参加し、

聞きに来てくれた両親の前で歌ったことがある。

思っていたよりも喜んでもらえたようで、

僕はその様子を見て、「生きてる」と思ったのだ。

ただ、そこには連続性がない。

毎年歌を送っているようでは、

「サプライズをやってやろう」という気持ちに基づく

創作意欲も次第になくなっていく。

そうして生まれた歌を披露する欲もなくなっていく。


僕が日々思っていることや、

読書や仕事・人間関係を通して気づいたことを

こうしてブログに書いて、友人に読んでもらうと、

ありがたいことに、ときどき「勇気をもらえる」という

メッセージをもらう。

僕はそんなとき、「生きてる」と思うのだ。

ただ、そこには連続性がない。

いったい、どの記事の、どの部分が

彼らに勇気を与えたのか分からないし、

例えそれが分かったとしても、

同じことばかりではブログが陳腐になるだけだ。


やっぱり、そういうひとつひとつの「作品」は

その日の気分や込める思いによってクオリティも様々。

誰かを喜ばせられるかどうかなんて、分からない。

ただ、僕はそういうのが誰かに認められなくとも、

文を書いたり、歌を作ったりするのが楽しいと思っているから、

それが「やった」ということで終わっても、

全く後悔がないからそれに心のほとんどを注いでいる。

上手くできたと自分で思えば、「生きてる」と思う。

そんな日は嬉々として眠りにつくことができる。

ただやはり、そこには連続性がないのだ。


会社に決まった時間出勤して、

決まった日に「休ん」で、

(会社のために生きているのではない、

ということを自分や世間に分からせるためには、

「休み」を「充実」させなければいけない、という

逆説的な心理が働いてしまうからカッコ「」。

週に1,2度の貴重な「休み」に一日中寝ている、

などというのは、きっと彼らの思うQOLにおいて、

許されざる行為なのだ)

大体決まった給料がもらえる、というシステムには、

素晴らしき連続性がある。

そして、衣食住自体は何とかなれども、

僕たちは少なくとも毎月国にお金を払わなければならない。

そこには、悲しいかな、連続性がある。