主体性の「総量一定」説

「ある現場における主体性の総量は一定」

というのが今日のテーマである。

ここでは「主体性」は

「自分で考えられる裁量」とほぼ同じ。

10人からなる組織の「主体性」の総量が

100あったとして、そのうちの80を

2人の人間が持っているとする。

すると、その2人がそれぞれ40ずつ分けるにしても、

残りの8人は主体性20を等分しなければならない。

すると、その8人の中では、

一人当たりに割り当てられる主体性はわずか2.5。

最初に出て来た2人がそれぞれ持っている

40には遠く及ばない。

「自分で考えられない」

ということは本当に面白くないばかりでなく、

考える気力そのものを削いでしまいかねない。

その場合、その8人がたとえ「生きて」いたとしても、

「知の死」を招くことになる。

主体性総量一定説に則れば、

悲しいことに、最初の2人の人間は、

残りの8人の主体性を奪うことによって、

自らの主体性を手にしているのだ。

主体性は、いわば既得権であり、

それを手放すのは容易ではない。


逆に言えば、

「指導者」を入れるにしても、

「指導者」をこちらから「使える」レベルに達しないうちに

容易なコーチングを求めることは

主体性の欠如につながりかねない。

「自分のこと」を「自分のこと」として

楽しみたい限りは、

容易に外に任せてはいけない。