指導者は「主体的に、試行錯誤してガンバ」ってはいけない

以前、「人が替われば、空気も変わる」という記事で こんなことを書いた。

いつまでも卒業したコミュニティに入り浸って 我が物顔をしているのはみっともないし、 「(先輩である)自分の言うことは正しい」 「昔のやり方の方がよかった」みたいな強力すぎる盾を手に、

後輩のやり方にあーだこーだ口出しして、 後輩がのびのびやるのを(結果として)妨げるのは ますますみっともない。

すると、こんなコメントをもらった。

「(卒業してもなお、) 今お前がいたコミュニティで(支援者、指導者として) ガンバってる人たちがいて、 その人たちは毎日試行錯誤しながらガンバってる。 そんな人たちのことをバカにしないでほしいな。」

「ガンバ」ってる=「良い」みたいな感じだけど、 そもそも支援者・指導者は支援者・指導者である限り、 「ガンバ」ってはいけない。

僕が糾弾しなければいけないのはそこだ。

アドラー心理学の重要なポイントの一つに、 「課題の分離」というのがある。

ある課題に対して、 「その結末を最終的に引き受けるのは誰か?」 を明確にするという考え方だ。

僕はスポーツに長く携わってきたから、 それを例に説明していく。

スポーツにおいては練習で上達するか否かの 結果を引き受けるのは選手自身。

だとすれば、 どう練習するか?は選手たちの課題であり、 「試行錯誤してガンバ」る必要があるのも当然、選手自身。

それなのに、 指導者側で「試行錯誤してガンバ」ってる人たちがいる。

選手自身の課題なのにどうして土足で踏みいるのか? そういう人たちの気持ちについて、 アドラー心理学について書いた本『嫌われる勇気』では、 こんな風に書かれていた。

「自分の目的―それは世間体や見栄かもしれませんし、 支配欲かもしれません―を満たすために動いています。」

「その欺瞞を察知するからこそ、(課題の主体は)反発するのです。」

それから僕はこんなことを危惧している。

選手たちが反発するだけなら良いけれど、

選手の課題を指導者が一生懸命「試行錯誤してガンバ」ることで その課題を横取りした結果、

選手本人が自分の頭で考え、 自分の感覚を信じることを止めるようになること。

僕はかつて、自分の考え、感覚があるにも関わらず、 あれこれ言われるのが本当に面倒になって、 「あぁ、こうやればいいんでしょ」と 指導者の期待だけを満たすような気持ちで 練習した時の風景も、感覚も、はっきりと覚えている。

そう、選手当人を (自分の頭や感覚で考えられないという意味で) 「バカ」に仕立てあげてしまう人たちを、 僕はバカにしたくなる、ということなのだ。

自分の頭や感覚で考えるのを、 絶対に邪魔してはいけない。 当事者じゃない人が「ガンバ」ってれば良いわけじゃない。

じゃあ支援者・指導者にできることは?

(本人が)何をしているのかを知った上で、見守ること」 「(本人がもっと向上したいと思った時は、) いつでも援助をする用意があることを伝えておく」こと。 上記の本ではそんな風にまとめられていた。