いい人の価値が下がる

   「いい人をやめれば」的な本を見るたびに、「またまた…」と思っていたのが、「いい人(≒他人にとって都合のいい人)」でいることは確かに自分の価値を下げることにつながると考え始めた。自分の譲れない条件を死守することが、かえって自分の価値を上げるかもしれない。

   とある心療内科には木曜日にしか来ない医師がいる。その医師に診てもらいたい患者は自分のスケジュールを医師に合わせる。病院の診療時間も限られていて、当然ー日に診きれない患者も出てくる。それでもその医師の診療を希望する患者は予約を待ち、そうでない患者は他の医師に診てもらうことを選ぶ。

   またあるパートタイム労働者は、たとえ仕事が残っていようとも、午前中で帰る(契約)ことを極力守るようにしている。そうして「〇〇さんは12時で帰る」ということを管理者に植え付けることにある程度成功したその人は、都合よく残業しないキャラクターと、それに基づいたシフトを手に入れつつある。

   自分のパフォーマンスを発揮するための条件を自ら設定して、極力それに対して妥協しないことがコンディション維持につながる上に、気持ちよく勤続するためのポイントになる。自ら設定したフレームの中で良いパフォーマンスを発揮しなければならない責任感が主体性を生むかもしれない。

   逆に、コミュニティや組織に対して「都合の良い」つまり、「いつでも呼び出し可能な」属性でいることは文字通り、「有り難く」ない。あることが、当たり前になってしまうから。そこに存在することの有り難さが再確認されることがない(ちなみに、そのような属性の付いている人は、往々にしてそのコミュニティを支える土台となっている人々であり、本来は不可欠な存在になるはずだ。しかし、それが不公平感を生み、他者への不寛容にならないように、自分の負担・自己犠牲度をきちんと調整する必要がある。『自分がこんなに頑張っているのだから』と他人へ頑張りを強要するようになっては論外だ)。

   良い(orムラのない)パフォーマンスを発揮し続けることで、その人の働きの質と価値が高まる。限られた条件下でしか手に入らない、貴重なもの(有り難いもの)になるから。それによって善意の自己犠牲によってコミュニティに対する「貸し」を作る感覚で手に入れる不健全な居場所とは異なる、もっと健全な居場所が作られる。初期段階から孤独というコストさえ払うことができれば。それが、「いい人をやめ」て「嫌われる勇気」という本屋で見かけるタイトルが示唆していることなのかもしれない。