「場所としてのお店」のはなし

「場所としてのこの店がなくなったら、困るよなぁ」 みたいなことを考えることがよくある。

ぼくは、非常にケチな男だし、 しばしばネット通販を利用するくせに、だ。

ここで言う「場所としてのお店」とは、

「モノを手に入れる手段としてのお店」ではなく、

「その空間にいることが楽しくて、 その場所に行くことが一つの目的になる」 そんなお店のことだ。

行けば気さくなジッちゃんバッちゃんが迎えてくれて、その時の ノリとかバイブス(もっとも、彼らは絶対にそんな言葉を使わない)によって 世間話をしたり、おまけをしてくれたり。 時には、「お店とお客」という垣根を越えて、 こちらからサービス的にお手伝いをしてあげたり。

こんなのはステレオタイプのイメージに過ぎない。

しかもぼくはすっかり便利で安価な消費生活に浸りながら 育ってきた人間の一人だから、

そこにノスタルジーを込めて 表現することもできなければ、 安直に「古き良き時代」に戻るべきだ、 という論を振りかざすこともできないし、 そんなことを言ったところで、 この流れを阻止することはできない、と思っている。

そんな田舎の風景ばかりでなく、 「場所としてのお店」を挙げるならば、

ぼくがこよなく愛する(?)リサイクルショップすら、最近は これまたぼくが楽しんで使っている「メルカリ」によって その立場を追われている。まことに皮肉なことだ。 (中古品をその場で即、現金化できるという リアルショップの最大の強みすら、奪われつつある!)

前置きが長くなったけれども、 ネット通販によって便利でかつ安価に消費生活を送れるいま、 しかも、すっかりデフレマインドが身について 「安いは正義」だと思い込みがちないま、 ちょっと忘れがちな現実を、時々思い出す。

それは、当然のことながら、

リアル店舗を維持管理するのには、 建物の維持管理費がかかっていて、 現場の人たちの人件費がかかっている、

ということだ。

そりゃそうだ、 ネット通販が、その販売網の大きさに対して システムを効率化して管理していて、 しかも店舗を持たないのだとすれば、 そっちの方が安くなるのは当然だ。

だからといって 「ネット通販をヤメロ!」というには、 提言としてはあまりにも効力がなさすぎる。

じゃあ、こんなのはどう?

「自分が気に入っている店舗の維持費を上乗せして払う」 と言ってみれば、もう少しハードルは下がるかもしれない。 「損した」と思わないで済むかもしれない。

場所を楽しむようなリアル店舗では 大抵ネット通販よりも商品の販売価格は高い。 その差額を、よほどのものでないかぎり、 あくまでも自分の財布の痛まない範囲ででも、 「場所としてのお店」の維持費として、 商品の価格に上乗せしたつもりで、払う。

そうして、 場所として自分を支えてくれたことに、 少しばかりのお礼を示す。 これを訓示的なものとして述べるつもりはないし、 いつもいつでもそんなことをやる訳ではない。

ただ、そんなありかたもまた、ありかもしれない。 「なし寄り」だとしても、ありかもしれない。 「お礼でもしてみよう」くらいの気持ちが こころに浮かんだときに、やる。

そんな思いを込めて過ごした時間は、 ただモノやサービスを買った以上に、 「自分はここにいてもいいんだ」 という感覚を伴うものになり、 それは、結局は自分の満足につながるかもしれない。 それは、時によっては「免罪符」かもしれない。 むしろそっちのほうが、割合としては多いかもしれない。

ただ、あくまでもそこに自分の気持ちがあればこそ。

こんなことは 「人に言われたからやる」という性質のものでは 全くないのでね!