髪型と変化と「予期せぬ成功」

僕は中学生になる頃からずっと髪型はベリーショート。 時には坊主に近い髪型になることも?

ただ、実は小学校を卒業するまでは いつも前髪が目にかかるほどのお坊っちゃまヘアー(?)だった。

話はさらに遡って、幼稚園時代。 僕は髪を切るのが本当に嫌いだった。 髪を切った翌日に登園して「髪切った?」と言われるのが嫌だった。 なんだかそれまでの髪型の方がよかったんじゃないか、とか、 そんなこと言われても切ったものはしょうがないのに、 「なんでそのシャツ着てきたの笑」みたいなばつの悪さを感じた。 それからというものの、僕は髪をできるだけ伸ばして、 前髪が目にかかって親に注意されてようやく切りにいく、 という感じだった。

それが変わったのが中学校入学前。 父に連れられて行った床屋で、注文よりも相当短くなってしまった。 当初はとても焦ったのを覚えている。 しかし、髪を短くしてからというものの、(?) 自分でいうのもなんだが、「モテ期」のようなものが訪れたのだ。

自分としても、重い髪が頭にあるよりも、 スッキリした頭の方が、頭の中までスッキリした気分になって 前向きになれる。 これは自分にとってまったく予期していなかった「成功」だった。 それ以降、自分の中で「髪が短いのは正義」と思うようになった。

先日読んだ本『もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『イノベーションと企業家精神』を読んだら』にも、 「予期せぬ成功」についてこんなことが書かれていた。

登場人物の五月が、あるときばっさり髪を切ったときのこと。 最初のうち、回りのみんなは新しい髪型を「似合わない」と言った。 しかし、一週間もする頃にはみんながそれを忘れていて、 しかもそれまでは「似合わない」と言っていた人も 「似合う」と言うようになっていた、というから驚きだった。

かくして五月は新しい髪型のよさという「予期せぬ成功」を 生み出すことに成功した。

今思えば、みんなは「髪型」に抵抗を覚えたんじゃなくて、 「変化」に抵抗を覚えていたんだと思う。

今では主流のスマートフォンも、iPhoneが発売された当初は 「あののっぺらぼうなデバイスがカッコいいとは思わない」 と思っていた。「ボタンがない携帯」というのは違和感があった。 ところが、今となってはそれがクールだと思われている。 シンプルだし。当初は違和感のあったスマートフォンだが、 もうボタンのないスマホが当たり前、というまでになっている。

「変化」に伴う「予期せぬ成功」のチャンスは、 実はは色々なところに転がっているのだ。 しかし、その本にはこんなことも書かれていた。

「変化を謙虚に受け止めることは、とても勇気がいることだ」