ムダの役割と余裕のない社会

   ボランティアワークにおける、承認を得ることを目的とした仕事は無駄でも良いのかもしれない、ということを先日の記事で述べた。

   ただ、仕事におけるムダはたとえそれが人々を食わせるためだとはいえ、(「より多くのムダな仕事によって多くの人が職にありつけていて、より多くの人が職場に包摂され、賃金も得られる」という状態を「余裕のある社会モデル❶」と勝手に名付けた。余裕のある社会とはどんなものだったのだろうか - GoKa.)様々な弊害を生む。それに対して我々は「余裕のある社会モデル❷」を模索していかなければならない。「社会のシステムに置いて無駄が果たす役割」と、その結果どのような「余裕のない社会」が生まれるか、について、企業が労働者の面倒を見ることを丸投げされている「民営化社会保障(:下の記事で筆者が名付けた)」を踏まえて改めて考えたい。

 

   コロナ禍において多くの人が抱いているであろう「どうして日本はみんなに直接現金支給をしないのだろうか?」という疑問について、この記事を読んで少し合点がいった。「何かを支給するのに何でも間に企業を挟むのが日本流」とのことだ。ここにも「ムダな仕事」のニオイがプンプンしている。この記事で筆者は、雇用調整助成金の拡充を通じて企業に手当てを打ち出している政府について、「日本政府は(雇用対策としては)手をうっている」という見方をしている。

   もしも、政府が国民に直接現金を支給してしまったら、「(政府から国民に何らかのもの・お金を届けるための)ムダな仕事」がなくなってしまう。ムダな仕事がなくなってしまうと、ムダな仕事の報酬としてのお金が民間企業に回らなくなる。筆者の述べるように現在の日本は民間企業が労働者の生活の面倒を見ることを丸投げされている「民営化社会保障」状態だ。その状況下で、民間企業に仕事とお金が回り、企業は税金を納め、そこで働く人たちが賃金を得て、賃金から税金を納める、というプロセスを手放すわけにはいかない(筆者が述べているように日本は「正規雇用の解雇は世界で一番ハードルが高い国の一つ」だ。その代わりに、「政府がまず手始めに支えなければいけないのは、頑張って従業員を守ろうとしている企業」だという)。

   ムダな仕事であっても、民間企業に仕事が回れば少なくとも「企業が法人税を納める」「人々の行き場所を作り、包摂する」「賃金から税金を取れるし、賃金は家計に収入をもたらす」という結果が期待できる。これは、機能としてはめちゃくちゃすごいものだと思う。

   しかし、「会社にいてこそ、面倒を見てもらえる」という事からどんな社会が生まれるだろうか?まずみんなが会社での居場所確保に躍起になるのだから、会社という世間社会への同調圧力が生じる。その結果、整っているが、ギスギスしている社会が生まれる事が想像できる。その中ではいじめが横行したり、差別的行為が行われたり、会社にいる理由としてのムダな仕事は無くならない(それこそが、人を食わせる理由になっているのだから!)し、ムダな仕事がなくならない限り、長時間労働も改善されない。

   ムダな仕事と民間企業を通じて人々が食っている社会は、人々が地域社会・地縁社会とは違った形で、社員である限り包摂され生活の糧を得られるような、“システムとして”弱者に優しい社会であると同時に、個々人として、自分の立場を守るために平気で差別する社会にもなりうる。そのような社会が発展していくとは考えにくい。