最期の別れ

 2日前、実家で飼っていた犬が亡くなった。

 もともとこの犬は祖父の家で飼っていたもの。5年前に祖父がこの世を去り、しばらくは祖母が犬の世話をしていたのだが、それにも限界を感じた母が3年前に私の実家に引き取ってきた。私は実家ではないアパートで生活しており、犬とは一緒に暮らしてこそいなかったものの、「実家に行けばいつでもあのワンコが飛び跳ねて喜び出迎えてくれる」といつも心にあったこともあって、実家を訪ねる理由・一つの心の拠り所にもなっていた。

 いまはもう魂のない犬を撫でながら「なんだか今にも動きそうな気がするね」と口にする度に「もう動かないんだ」という事実がより一層意識される気がして、悲しみがこみあげる。

 亡骸を目にして、「もう生きていない」ということをきちんと胸に刻むこと。その後しばらくは悲しい気持ちに包まれるが、自分の目で「もう生きていない」ということを確かめることはまた、区切りにもなる。同じく、最期のお別れをしようと、犬を近くに感じていた親戚数人が「最期のお別れができないと後悔するから」とそれぞれ2時間ほどかけて駆けつけた。

 いわゆる葬式の大事な部分はこの「区切り」にこそあるのかもしれないと思った。様々な事情により、近い存在の死に対して区切りをつけられない別れがあったとすれば、その辛さは計り知れないこともまた、想わずにはいられない。

 これまでたくさんの人を幸せにしてくれてありがとう。アッチでもきっと友達たくさんできるよ!レスト・イン・ピース。

 

追記

彼は共同墓地に入ることになった。「友達たくさんできるよ」とはそれを受けて妻が言った言葉だ。向こうでも友達と楽しく暮らせることが彼にとっても良いことだと分かりつつも、向こうで友達と楽しそうに戯れている様子を想像すると、もう自分達のもとにはいないということが一層意識されるのか、「もうこの世にはいない」ということは受け入れ始めたつもりでも、内側から涙が込み上げてくる感じがする。