たたかう ということ

 「あなた、相当たたかってしまっているのね」と言われる。「たたかうことは、よくないこと」というニュアンスもある。「たたかうから、疲れるのよ(だったら、たたかうことをやめてしまいなさい)」と言われて、「たたかうことをやめた方がいいのかな」と思う。それでも違和感は残ったままだし、「たたかわないようにしよう」と思えば思うほど、たたかう対象のことが意識されるーーそんな話を聞かせてもらった。

 たたかうというのはたぶん免疫反応みたいなもので、普段、たたかうことで自分を守っている。ただ、その免疫が過剰反応するとかえって自分に悪影響(アレルギー反応)を及ぼしてしまう、という感じなんだと思う。確かに、過剰反応まで起こすと疲れる。しかしそういうことがあることを知りながら、それでもなぜたたかうかというと(たとえ現状を変えるのが難しくとも)そこに受け入れ難い何かがあるからだろう。そして、その「受け入れがたい何か」とは往々にして「目に見えない(無意識の)差別・偏見」だったりする。アダルティズム(年齢に基づく若者への差別・偏見)、ミソジニー(女性蔑視)、ルッキズム(外見に基づく差別・偏見)さらには学歴主義、雇用形態の違い…なんとなく社会を形作っていて「そういうものだ」「それを乗り越えて頑張るものだ」と考えられがちな価値観のなかには、こうした差別が少なからず含まれている(そしてその差別を「タフ」になって耐え、やりおおせて年齢を重ねた人は、当然他の人もそうすべきだと考えるようになるのだろう)。

 なんとなく受け入れられて「そういうものだ」と思われている価値観の中の一部が差別に基づくものであるかかわらず、さらにその差別には「表面的には」合理性を帯びているものもあり、そうした差別を社会がヌルッと受け入れてしまっていることも少なくない。だから、たたかうこと、ひいてはたたかうことで無意識的な差別を対象化することそのものが良くないと私は考えない。そしてたたかうことは自分に悪影響を及ぼさない限りにおいてアリなんじゃないか。その範囲の中でやれるところまでやってみたらよくて、これ以上やれないと思ったらそこから世界の見方・どのようにして差別と向き合うかを、自分のコントロールにおいて改めればいい。ムーミンシリーズのキャラクター・リトルミイの名言にも、「それがあんたのわるいとこよ。たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」って名言がある。

オリジナルは制限の中から

 案外、オリジナルは制限の中から生まれるのかもしれない、ということを考えた。

 例えば長野県の名物・信州おやきは、米作りに適さない気候の土地から米の代替食として生まれたと言うし、岩手県西和賀町のビスケット天ぷらは、冬に雪が深くて買い物に行くのも大変だから、保存のきくビスケットに衣をつけてボリュームを増したところから生まれたという。

 何か他にいい例はあるだろうか?ここ数年、職場でもらった(それなりの量の)木材で簡単な家具作りをしているが、「あるもので」という制限がかかったら「どうすれば手持ちの材料でうまく作れるだろうか」と考えるようになる。その工夫から生まれた作品はオリジナルなものである。他には…私の職場では10月頃はピーマン(!)と栗がたくさん取れる。食べられるものがピーマンと栗くらいしかないとすれば、たぶん栗とピーマンを使ってなんとか美味しいサムシングを作ろうと考えるかもしれない(作ったことないけど)し、あんまり栗とピーマンに飽きてしまったら、なんとかして「栗ピーマン」なる食べ物を美味しく食べられる方法を考えざるを得ないかもしれない。

 「なんでも制限なく自由に選んでよい」という条件下では意外とどうしてよいか分からず、(他の人を見て既に頭の中にイメージされた)欲しいもの・ないものを手に入れれば終わりだ。そして、また次から次へと欲しいもの・ないものを手に入れ続けていくことになる。もしくはそこからオリジナルを生み出そうとすれば、自分でも理解不可能な奇抜さにわざと傾き、まるで「生み捨て」るようにして作品が生まれる。そこには自分や環境との連続性がない。

 一方「あるもので」と制限がかかったら、あるものに注目してそれを「なんとかして」よいものに仕上げる必要がある。繰り返しになるが、その「なんとかする」の中からオリジナルの要素が生まれる。

 ただ、オリジナルはオリジナルであるからして、必ずしも万人受けしないし、最適な素材を使えるとは限らないので自分でも不満が残る可能性がある。が、そこには確かに自分や環境との連続性が存在する。

居場所のパラドックス

 日常的に頑張って羽ばたいている人が疲れた時に一休みできる止まり木のような「居場所」があるとする。そこを訪れる本人にとっては居心地が良いが、居心地が良いからこそ、そこに普段の人間関係を持ち込みたくなかったり、その場所が「隠れ家」であってほしいと思うあまり、他の人に入ってきて欲しくないと思ったりすることであえて自らその「居場所」を宣伝しない。「居場所」なる場所もまた、多くの人に利用されることでその社会的意義が認められたり実際に利益が生まれたりすることで存続できるのだが、利用者自身が必ずしも多くの人に利用されることを望んでいない。多くの人に利用されることでその場所が自分の居場所たり得なくなる可能性があるからだ。

 

より「マシ」な理想追求のために

 「自分の理想を追求しようとするな」とは2019年、リーダーを任された自分が自分に投げかけた言葉だった。

 つまり、自分が嫌った社会もまた、誰かの理想追求の先にある社会だったはずなのに、自分が理想追求をしてしまっては、結局また誰かにとって嫌な社会になってしまうからだ。一方「理想を追求しないこと」を頑張ってやろうとしたとて、完全な社会などあり得ず、やはり誰かの嫌う社会になってしまうことは避けられない。

 例えば僕は「嫌にならない地域付き合い」をテーマに、そこに「余白と自由」を挟み込むことを理想に掲げてきたが、他人に余白を見せてしまってはフリーライダーとみなされ、自分がいじめと排除のターゲットになることを(動物的に)感じている人にとっては、「余白」などというものは害悪でしかない。あらかじめ決められた役割や仕事がなく自由に過ごせと言われてもどうして良いか分からず、途方に暮れてしまう人にとっては、「自由」などという時間は苦痛な時間でしかない。

 僕が「余白と自由を恐れる人」と表現する人は、本人からすれば「集団の利益を重んじる人」であるかもしれないし、それが(自分が「余白と自由」をそこに据えるのと同じく)生き残るための重要な要素だと思っているかもしれない。また「余白と自由を求める人」はフリーライダーであり、「一刻も早く集団だから排除しなければならないようなことをする馬鹿な人物」のように映るかもしれない。それに対して自分(たち)を「余白と自由を求める人」だと表現する/思う/考えるとき、無意識のうちに「余白と自由」を「善」に据えている。そうして、余白と自由を阻害するものをまた、「悪」だと考えている。

 そしてまた、この「●●な人」という語りがそもそも、差別から抜け出せていない。「●●」は良くないことであり、それを「●●な人」と対象化することで、「そっち側にいない」という傲慢ささえ滲み出てしまう。これまでずっとこのような書き方をしてきたが、ここには「そっち側」の人を差別する心があることを否定しきれない。差別に抗い「余白と自由」を求めたはずが、理想追求の過程で「余白と自由」という価値に乗らない他者をつい差別する気持ちが拭い去れない。

 「他者の自由に寛容になる」には「他者による他者への不寛容に対してどれだけ寛容でいられるか」も含まれている。つまり「余白と自由」を阻害するものに対してさえも、寛容でいられるかが試される。しかも完全に寛容であることそのものが良いことではなく、良くないこと・違和感を覚えることはコミュニケーションによって改善しなければならない。

 しかも一度「悪」に据えたものを、自らの都合のいいように解釈加工(「そういう環境にいたから仕方ないよね」とか)してしまうのではなく、それ自体として確かにメリットがあり、自分の主張する正しさの中にも確かにデメリットがあるということがわかった上で、考えが異なる人がまた、何を「補完」してくれているのかを考え、自分ができない働きに感謝する(これがめちゃめちゃ難しい)。これで理想追求がよりマシなものになるだろうか。

変わるのは難しい・変わり方が分からない

 現状が良くなくて、変わった方がいいと自分でも思っているんだけれども、変わるのが難しい。

 例えば「いじめられっ子」を自認している人が、もはや安全な場所にいたとしても「いじめられっ子」っぽい振る舞いや行動パターンが抜けなくて、良い人付き合いができていないと思っていたとする。「この状況から脱したい」と頭ではわかっていても、実際にこの状況から脱するためには進んで「いじめられっ子」っぽい振る舞いをすることをやめて、「いじめられっ子っぽくない振る舞い」をすることになるのだが、「いじめられっ子っぽくない振る舞い」とは、「いじめられっ子」だったかつての自分にとって、自らをいじめのターゲットとして晒す(と思い込んでいる)振る舞いでもある。ゆえに実際にいじめたり、排除するような人物がその場にいなくとも、「変わる」うえで必要な(意識のうえで)自らを危険に晒(してでも望んだ付き合いを目指)すことが避けられないのだが、それが難しいから、なかなか変われない。嫌われることを極端に恐れている人も然り、だ。

 そのような悩みを抱える人は「変わりたい」と思っていても、「どう変わってよいか分からない」「変わり方が分からない」というのが実際のところなのではないだろうか。

管理されないと頑張りすぎる

(自律的な人物にとっては)管理されない方が自由にやれてよかったとしても、(特に他律的な人物にとってはむしろ、)管理されないと「頑張りすぎる」ということが起こるんじゃないか、ということを妻から教えられてハッとした。「頑張らせすぎないための管理」というのが存在するのだ、と。