より「マシ」な理想追求のために

 「自分の理想を追求しようとするな」とは2019年、リーダーを任された自分が自分に投げかけた言葉だった。

 つまり、自分が嫌った社会もまた、誰かの理想追求の先にある社会だったはずなのに、自分が理想追求をしてしまっては、結局また誰かにとって嫌な社会になってしまうからだ。一方「理想を追求しないこと」を頑張ってやろうとしたとて、完全な社会などあり得ず、やはり誰かの嫌う社会になってしまうことは避けられない。

 例えば僕は「嫌にならない地域付き合い」をテーマに、そこに「余白と自由」を挟み込むことを理想に掲げてきたが、他人に余白を見せてしまってはフリーライダーとみなされ、自分がいじめと排除のターゲットになることを(動物的に)感じている人にとっては、「余白」などというものは害悪でしかない。あらかじめ決められた役割や仕事がなく自由に過ごせと言われてもどうして良いか分からず、途方に暮れてしまう人にとっては、「自由」などという時間は苦痛な時間でしかない。

 僕が「余白と自由を恐れる人」と表現する人は、本人からすれば「集団の利益を重んじる人」であるかもしれないし、それが(自分が「余白と自由」をそこに据えるのと同じく)生き残るための重要な要素だと思っているかもしれない。また「余白と自由を求める人」はフリーライダーであり、「一刻も早く集団だから排除しなければならないようなことをする馬鹿な人物」のように映るかもしれない。それに対して自分(たち)を「余白と自由を求める人」だと表現する/思う/考えるとき、無意識のうちに「余白と自由」を「善」に据えている。そうして、余白と自由を阻害するものをまた、「悪」だと考えている。

 そしてまた、この「●●な人」という語りがそもそも、差別から抜け出せていない。「●●」は良くないことであり、それを「●●な人」と対象化することで、「そっち側にいない」という傲慢ささえ滲み出てしまう。これまでずっとこのような書き方をしてきたが、ここには「そっち側」の人を差別する心があることを否定しきれない。差別に抗い「余白と自由」を求めたはずが、理想追求の過程で「余白と自由」という価値に乗らない他者をつい差別する気持ちが拭い去れない。

 「他者の自由に寛容になる」には「他者による他者への不寛容に対してどれだけ寛容でいられるか」も含まれている。つまり「余白と自由」を阻害するものに対してさえも、寛容でいられるかが試される。しかも完全に寛容であることそのものが良いことではなく、良くないこと・違和感を覚えることはコミュニケーションによって改善しなければならない。

 しかも一度「悪」に据えたものを、自らの都合のいいように解釈加工(「そういう環境にいたから仕方ないよね」とか)してしまうのではなく、それ自体として確かにメリットがあり、自分の主張する正しさの中にも確かにデメリットがあるということがわかった上で、考えが異なる人がまた、何を「補完」してくれているのかを考え、自分ができない働きに感謝する(これがめちゃめちゃ難しい)。これで理想追求がよりマシなものになるだろうか。