オリジナルは制限の中から

 案外、オリジナルは制限の中から生まれるのかもしれない、ということを考えた。

 例えば長野県の名物・信州おやきは、米作りに適さない気候の土地から米の代替食として生まれたと言うし、岩手県西和賀町のビスケット天ぷらは、冬に雪が深くて買い物に行くのも大変だから、保存のきくビスケットに衣をつけてボリュームを増したところから生まれたという。

 何か他にいい例はあるだろうか?ここ数年、職場でもらった(それなりの量の)木材で簡単な家具作りをしているが、「あるもので」という制限がかかったら「どうすれば手持ちの材料でうまく作れるだろうか」と考えるようになる。その工夫から生まれた作品はオリジナルなものである。他には…私の職場では10月頃はピーマン(!)と栗がたくさん取れる。食べられるものがピーマンと栗くらいしかないとすれば、たぶん栗とピーマンを使ってなんとか美味しいサムシングを作ろうと考えるかもしれない(作ったことないけど)し、あんまり栗とピーマンに飽きてしまったら、なんとかして「栗ピーマン」なる食べ物を美味しく食べられる方法を考えざるを得ないかもしれない。

 「なんでも制限なく自由に選んでよい」という条件下では意外とどうしてよいか分からず、(他の人を見て既に頭の中にイメージされた)欲しいもの・ないものを手に入れれば終わりだ。そして、また次から次へと欲しいもの・ないものを手に入れ続けていくことになる。もしくはそこからオリジナルを生み出そうとすれば、自分でも理解不可能な奇抜さにわざと傾き、まるで「生み捨て」るようにして作品が生まれる。そこには自分や環境との連続性がない。

 一方「あるもので」と制限がかかったら、あるものに注目してそれを「なんとかして」よいものに仕上げる必要がある。繰り返しになるが、その「なんとかする」の中からオリジナルの要素が生まれる。

 ただ、オリジナルはオリジナルであるからして、必ずしも万人受けしないし、最適な素材を使えるとは限らないので自分でも不満が残る可能性がある。が、そこには確かに自分や環境との連続性が存在する。