「若い人はすぐググる」と「余計なお世話」のはなし
「サンマ ワタ 取り方」
と検索窓に入力した!検索結果出た!
でもふと思いとどまって見るのをやめた。
「こういうのに限っては、調べるのはちょっともったいない」
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「イマドキの若い連中はなんでも『ググる』からダメだ」
この類の批判を見たり聞いたりするたび、
「いやいやいやいや、ほんと余計なお世話。 グーグル検索役立ってますからね」
「むしろ言葉の意味を調べるオレにとって 勉強にはうってつけのツールだ、ほっとけや」
という反論が心に浮かぶ。
ただ、最近ストンと腑に落ちたのが
何かの『やり方』に限っては、 自分の経験をすっ飛ばして「ググる」のは ちょっぴりもったいないかもしれない。
これは、認めざるを得ない。
実際に適当にやって見て
「あちゃー、 こんだけ塩入れたらそりゃしょっぱいわな」とか
「全然砂糖足りなくて味しないケーキができた」とか
そういうのを繰り返してぼくの「目分量」は出来てきたわけだし、
日本酒造りの蔵人も、
「あそこで温度管理がうまくいかなかったからクサい麹ができちゃった」とか
「お米の蒸しがイマイチで米が溶けない」とか、
そんなことを繰り返して「良い感じ」ができると聞いた。
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ただ、経験はあくまで自分の経験であって、 自分の経験を「経験」のままに教えるのは、とても乱暴だ。
英語の授業で
「ここは過去形になるっていったら過去形なんだ、分かったな」 「be動詞は一人称がamで、二人称がareだ。 そう決まっているものは決まっている」
と言われても、「Why?」である。
職人の下で修行をしていたとして
「やってれば慣れるから、屁理屈こねずに鍛錬を重ねろ」「コツをつかめ」
と言われても、「そりゃそうなんだけどさ」としか言いようがない。
そして、覆しようのない「経験の差」を 「人格の差」のように押し付けてくる人たちのところから 人が離れていくのは当然のことだ。
誰かの経験を「ことば」で教えてくれる、 しかも押し付けでなく、自分のペースで「ことば」を拾うのを 許してくれる「グーグル先生」にとってかわられるのも当然だ。
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裏を返せば「グーグル先生」は、 独学においては非常に頼もしい存在だ。
「正しいやり方はわからないけど、 とりあえずやってみるべし」と思って
「ダメだった」となったあとに「ググる」。
そして、自分の感覚にしっくりくる「ことば」を見つける。
これがいつでもどこでもできるのだから、 授業の直後に復習ができるように、効果てきめんだ。
失敗しても危険でない場合は、 とりあえず一発目は「ググらない」選択もアリだけど、 そんなのは自分で気づくことであって、
要は、
「失敗に口出しするなよ」「勝手にやらせろ」。
(突き詰めれば、 こんな文章をもって誰かに 「まずは経験だ」と説くこともまた、 立派な「余計なお世話」だ。)
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結局、サンマのワタは上手く取れなくて 苦いワタを食べることになったのだけれども、
「ワタも(苦味含めて)美味しいじゃん」
ということが分かって、ぼくにとって、 思わぬラッキーがあった。
今度は、サンマの頭をゆっくり丁寧にひっぱることにする。