「友達は永遠じゃない」?

東京は好きだ。横浜も戸田(埼玉)も好き。全部僕の第2の故郷と呼ぶにふさわしい。

そこで一緒に過ごしたみんなも大好き。会いたい、けど会いたくない。

 

 

時々何かの用事で東京や横浜に行くことがある。

僕は不審者かと思われるくらい、歩き慣れたホームや道をキョロキョロしている。

その心境は間違いなく「どっかに知り合いはいないかな」である。

せっかく懐かしい場所に来たのだから、と、

その場所に、懐かしい人の姿までも自然に求めているようである。

 

しかし、驚くことに「会って話がしたい」とはほとんど思っていない。

せいぜい、手を挙げて「チっす」というくらいで十分、というかそれがベスト。

そのまま「飲みに行こう」なんて話になったら面倒だ、とすら思っている。

2人だったらまだしも、3人以上になると、自然に共通の話をしようと思うでしょ?

そうすると思い出話や「あの人はいま?」くらいしか話題がない。

どうも思い出話には限りがあるし、思い出話の一番の楽しみは

「そういえばそうだったね!」の共有であるからして、それっきり二度と使えない。

 

東京での飲み会の相場は2時間3000円くらいで、

「なかなか会えないからもうちょっと」なんて言って

二次会にでも行った日には5、6000円はあっという間に吹っ飛ぶ。

お金も体力も「消耗」する。ちょっとの盛り上がりも、終わったらむなしい。

 

もちろん、誤解の無いように言っておくと学生時代に会った人々は大好きだ。

会えば懐かしい感じがするし、今までお互いに(一方的に)あったぎくしゃくも、

懐かしさによってなんだかチャラになった気分がする。

だけど、基本的にはもうこれから一緒に何かをなす、ということはないんです。

価値観は経験がつくるから、進路が違えば一緒に過ごした時間とは

お互いに価値観も違っていることだろう。

 

僕が就職活動中にお世話になった先輩はこんなことを言った。

「一緒に過去を語る人は『友達』で、未来を一緒に作る人は『仲間』だ」と。

東京や横浜の人は、下手すれば僕の家族だって、

何もなければ「友達」にカテゴライズされてしまうんですね。

 

だから、寂しいことを言うようだが、その人が自分の未来と関わっていない限り、

懐かしさのためにわざわざ旧友と付き合う必要はない、と思っている。

僕も、「長野」「諏訪」「日本酒」とかいうキーワードが出てきた

ふとした瞬間に思い出してもらえればそれで満足。

それで、「お前いま面白そうなことやってんじゃん!」とか、

少しでも思ってもらえて、

実際にだれかと一緒に面白いことできたら大・大満足。

ソーシャルメディアがその人の「いま」を伝えるメディアになるなら、

大いに活用したい。それで、僕のことをある意味「都合よく」使ってもらって結構。

(「長野旅行の足になってくれ」「ウマい酒くれ」

「ちょっと長野行くから泊めてくれ」etc)

 

それでも、僕の大好きな「友達」に会った日には、

その人の「いま」と「未来」を引き出せるように話を持っていかなければ!

というのが目下の目標になりましょう。

そうすれば、「友達」が「仲間」に変わる可能性は十分あるし、

僕も誰かの「仲間」になれたらこの先もっと楽しいと思うんです。