「誠実である」ということ

僕のことを評価してくれる人は、

どこの人も口をそろえて「誠実だ」という。
 
(「おれは誠実な人間だ」と自慢しているのではなく、
僕を評価する人がいれば、その人たちの多くは「誠実だ」と言ってくれる、ということ。
もちろん、一部の層は僕のことを本気で嫌っている(避けている)ことも何となく知っている。)
 

「誠実」とは?

ちょっと「誠実」という言葉の意味を調べてみた。
 
すると、
「私利私欲を交えず、真心をもって人や物事に対すること」
とあった。
 
私利私欲を交えずに、とな!?
とんでもない、僕は私利私欲のために「誠実」なのだ。
 

 

「自分に誠実であるということは、他人に誠実であるということ」

プロブロガー・イケダハヤト氏の著書「武器としての書く技術」に、こんなことが書かれていた。
 
 
(ブログに)「こんなことを書いたら嫌われる...」と恐れて公開ボタンを押すのを諦めたとき、
ぼくは自分に対して誠実でなくなる。自分を偽り、本当に言いたいことを言わずに、周囲の顔色をうかがいながら、生きて、死ぬということです。(中略)例えば、本心では「雇われライターはダメだ」と思っているのに、いざ友人の新聞記者の前に立つと、「いやー、新聞記者って素晴らしいと思いますよ」と語るとするならば、それは相手に対して大変不誠実。だってそれ、ウソじゃないですか。
 
自分に正直なら、他人にウソをつかなくていいのです。
 
イケダハヤト氏とは...
東京の大企業を辞め、高知県の「ド」がつくほどの田舎に移住したのち、
独立・起業してブログ収入を中心に生計を立てているプロブロガー。
炎上を恐れない(むしろ狙っているとすら思われるような
独特の言論スタイルで最近話題になっている。
僕も(独立・起業まではしていないものの、)同じく地方移住者として、
イケダハヤト氏のブログやツイートを
いつも楽しく読ませてもらっている。
 
 

自分に誠実

僕の「やりたいこと」の根底にはこんな共通の考えがある。
 
「自分に出来ることで(自分の出番だ!と思うところで)、
身近な人や僕の属する小さな社会の誰かに、ちょっとだけ喜んで欲しい」
 
それが「何かしらその社会の役に立っている」という自信になり、
それこそが、その社会で「生きている」という実感につながるからだ。
うまくいけば、評価してもらえるから、できることは手を尽くしてでも
評価してもらいたい。評価してもらえるまで手を尽くす。
もしくは、だれかの笑顔や喜び、エキサイトという結果になって現れるのも同様。
 
そして僕はそれらの自信と実感、評価・結果を得たいという欲がある。
ある、どころか、欲にまみれている
 
(これが、自分の心の内から沸き上がる私利私欲だからこそ、である。
他人が僕にやって欲しいと望むことのうち、僕が本当に心からやりたいと思っていないこと
をキッチリ遂行する能力は、はっきり言って並以下、である。)
 
その結果、どうやったらその人たちを楽しませられるか、喜んでもらえるか、
本気で考えるようになる。そこには間違いなく真心がある。
(もっとも、僕は察しが良くないので、的はずれのことも頻繁にあるのだが。)
 
 

自己犠牲の精神が大事とはよく言うけど...

ところが、どうだろう?
自分が心からやりたいと思ってもいないことで、
「これは他人のためだから」などといって、自己犠牲という美辞麗句のもとでやることには、
なんというか、こう、モチベーションに欠けたものを押し売りする傲慢ささえ感じる。
そんなのはお互いのためにならないので、やめた方がいい。
 
 

自分に誠実であれ、と言い聞かせる

僕はこの頃自分にこんなことを言い聞かせている。
「やりたくないことはやらないでいいよ。
そのかわり、やりたいと思ったこと(自分の出番だと思ったこと)は満足するまでやれ。
 
ポイントとして大事なのは、「やりたくないことはやらない」ことの方である。
もしくはやらなくてすむ方法を考えること。
日本人であるかぎり、やりたいことをやることよりも、難しいのはこっち。
 
 

おわりに

自分に誠実であれとはよく自分に言い聞かせてはいる。
しかし他人にどんなことをした結果、「誠実だ」と評価してもらえたのか、
僕ははっきり言ってよくわかっていない。