とりあえず、無駄でもよくね

    今となっては「あれは無駄だった」と思うことは、僕にとっては「(パッケージとしての)就活」だろうか。今後も「やっとけばいつか役に立つから」という内外からやってくる詭弁によって、ひたすら「やる」こと(「いる」ことではなく)で埋め尽くされることを危惧している。特に、それが善意に満ちているほど。

  「やって無駄なことなんて何ひとつない」とはよく聞く。ただあくまでも「無駄じゃなか」ったと分かるのは、その経験が事後的に役に立ってはじめてのことだ。それを、まるで経験から「元を取る」かのように「あの経験は確かに役に立っている」と言い切ることに固執してしまっては、かつて「無駄だ」と思わしめた自分の中に存在した不本意性から目を背けることになる。そうすると、不本意なことでも「やる」のが美徳ということになってしまう。そうではなくて「かつてあれをやったが、あれは無駄だった」と言い切ってしまうことができれば、楽になれると思う。意味付けは何度でもし直すことができるから、後で役立った時が来てはじめて「無駄じゃなかった」と言えればいい。