「来年から野球選手になります」?!―「自分でやってみること」そのものに価値がある―

「何かを自分の意思でやってみること」そのものには

その試みそのものが「成功」か「失敗」か、

というのとは別に間違いなく「気づき」が存在する。


例えば僕がこれから

「2017年のドラフトで選ばれてプロ野球選手になる!」

という目標を掲げて、しかも

その目標達成に向けて燃えているとする。

プロ野球選手になる」という目標だけを見れば、

野球はほとんどやってこなかった僕が、

しかも来年26になる僕が、

まずプロ野球選手になることは不可能だろう。

ただ、本人は燃えている。

誰にやれといわれたでもない、自分のことだと思って、

プロ野球選手になるにはどうしたらよいか、

あれこれ研究する。

その間に、身体の使い方やメンテナンスのしかた、

スポーツ選手のメンタリティ、自分の得意な練習、

そうでない練習、自分の身体の特性、

筋力・体重アップの方法、自分に合った方法、

いろんなことを、楽しみながら次々と吸収していく。

さぁ、2017年のドラフトの日!

・・・選ばれても、選ばれなかったとしても、

少なくとも、自分の意思・自主性のもとで

学ばれたことは、食べ物以上に「身になる」。

そうやって身につけた「自分の扱い方」というのは、

絶対になくならない。

詰め込まれた知識、やれと言われてやったこと、

そういうのは割とすぐに忘れてしまうだろうけれど、

自分で気づいたことは間違いなく自分の「リアル」であって

その経験が、その後の「自分の」たたかいかたの

バックボーンとなる。

たとえ先達と同じような「上手くいかなかったこと」を

経験するにしても、誰かの経験と自分の経験は全く違う。

そもそも、「野球選手になりたい!」という自己決定のもと

行ってきた練習に費やしてきた時間は、

自分が強い意志で決めて、

そこにゆるぎないものがあった結果なのだから

別の選択肢があったとしても、

後悔することはまずない。

その経験が後に生きていいことがあれば

「あの時間のおかげだ」ってなるんでしょ。


そんなことを考えれば、

表向きの結果がどうであれ、

自己決定に基づき、自主性のもとに

まるで研究者が実験を繰り返すように

試行錯誤することは、

それだけで何らかの「気づき」が得られる行為で、

そうして得られた「気づき」は自分の宝だ。

例えば、上の話だと

プロ野球選手なんて絶対ムリムリ」という人は、

「野球選手になる・ならない」だけにしかフォーカスできない

近視眼的思考の持ち主であるがゆえに、

その「気づき=宝」を得るチャンスをみすみす逃しているだけ。

そのパッションはあらゆるものに持てるものか?

と聞かれれば、そうではないはず。

いま、自分が「これだ!」と思うことにこそ。

「自分でやってみること」には、

「成功する」「失敗する」の次元では語れない、

そのものに価値がある。僕はそう思っている。