競争の存在を強く意識しているからこそ、競争を避ける

「他人の頑張るところで頑張らないで、 他人の頑張らないところで頑張る」 というのを「タニガバ論」と名付けてモットーにしている。

あまのじゃく、と言われるかもしれない。 しかし自分の感覚としてはどちらかと言えば そのコミュニティの穴を埋めるように「自分の役割」というものを 強く意識しながらそれを積極的に求めていく、という感じだ。

僕はできることなら同じ組織の中では誰かと同じことをしたくない。 誰かと同じことをした時点で、「競争」の構造が生まれるから。 そして、競争というものの存在を強く意識しているからこそ、 僕は競争を避けることにした。

「競争」とは言っても、 必ずしも目に見える勝ち負けがつくわけではないが、 同じことをしている限り、どっちが良かった、どれが良かった、 という比較が生まれることは往々にしてよくあることだ。

もちろん、自分がいわゆる「負け」側になってしまうのは悔しい。 競争の構造の中では、絶えず「今のままじゃいけない」という 現状を否定する感覚に苛まれ続けるから。

しかし、いわゆる「勝ち」側になったとしても、素直に喜べない。 そこには「負け」側の人を置き去りにして突っ走らなければいけない感覚がある。それに「自分のやり方がよかったから」みたいなことを 押し付けたくもない。

僕たちは気がつけばいつのまに競争の構造の中に放り込まれていた。 学校の勉強もスポーツも、順位付け優劣付けが存在した。 「どんな風に」というよりも「どれだけ良くできたか」を評価され、それらを競うような感覚の中で過ごしてきた。 教育の現場では「君は君であるからこそ君なんだ」とは 誰も教えてくれなかった。

「自分は自分であるからこそ、自分なんだ」 というのが分かり始めたのは、大学生になってから。 高校までのように人間が同じ尺度で評価されないことを 目の当たりにしてからだ。

少なくとも僕は競争というものを強く意識しながら これまで生きてきた。それは大体、心からの幸せとは結び付かない。 そういうこともようやく分かり始めてきた。

だからこそ、僕は競争の構造に組み込まれることを極力避けたい。 そういうわけで、 「他人の頑張るところで頑張らない、 他人の頑張らないところで頑張る」。

ついでに言えば、もしも今後自分のイニシアチブのもとで リーダーシップを執る機会があるならば、 競争の構造に誰かを組み込むことも避けたい。