「共同体感覚」と「ありがとう」の言葉

誰かになにかをしてもらって、「ごめん」というケースがある。

「ごめん」ということはすなわち自分の「非」を認めること。 だとすれば、そこには何らかの補償行為の必要性が生じる。 (次にきちんとできるようにするための工夫や努力をする、 補償のためのものや行為を与える、など)

そうなれば、「ごめん」とだけ言われたら、 「じゃあ何かしてくれるのかよ!?」という気持ちが生じる。

自分にこれといった非がなければ「ありがとう」の代わりに 「ごめん」ということは無駄なリスクを背負うことにもなる。

もちろん、本当に自分に非があるのなら、謝罪せねばなるまい。

しかしそれだけでなく、 もし自分の落ち度を誰かが代わりにカバーしてくれて、 もう自分には手の打ちようがない、または手を打つ必要がなければ、 そのことに対しては素直に「ありがとう」と言おう

「~してごめん。でも、~してくれてありがとう!」

相手に対して「あなたのおかげで助かりましたよ」という メッセージを送ることは、「誰かの役に立てる自分は有能だ」 という相手の気持ちを満たすことにつながる。 それはすなわち、アドラーの唱えた「共同体感覚」につながる。