期待なんてちっともありがたくない

「新成人の皆さまのますますの活躍を『期待』しています」 そんなフレーズの入った原稿を作ったら、 国語の先生に「『期待』というのは上から目線だからダメ」と、 「ますますの活躍を『お祈り』しています」と書き直された。

中学二年生の終わり頃、市の中学生を代表して 成人式のスピーチをすることになったときのことだ。

日本語歴十数年の経験(?)をもってしても、 当時の僕はその感覚がよくわからなかった。

ただ、それからしばらくして、 徐々にその意味を解釈できるようになった。

極端な話、「期待」とは「尊敬」とは対極にあるのだ。

アドラーの唱えたように「尊敬すること」が 「ありのままにその人を見て、認めること」だとすれば、 「期待すること」とは、遠回しではあっても 「(君は今のままじゃダメだけど)もっと良くなるはず。 だけど、そのポテンシャルは持ってるみたいだね」という 含みを持っていることになる。

強調すべきは、ポテンシャルが評価されているのであって、 今の自分が評価されているのではない、ということ。 「期待」という言葉には「今のあなたが良いと思う」 というメッセージなど、含まれていないのだ。

そう考えれば、いくら「大人」としてはまだまだであろうと、 20歳の新成人に対して14歳の中学生が「期待しています」なんて 言えたもんじゃないのだ。 (もっとも、相手が誰であろうとあまり期待はすべきでない。) だから、あの時先生は「上から目線だからダメ」と、 僕の原稿を訂正したのだ。


「上から目線で傲慢」だけならまだいい。 度を超えた期待は時に人を苦しめる。

「本人がどうなりたいか」とか「本人がどうしたいか」とか、 そういうのを置き去りにして、周りが勝手に期待しまくって、 それに応えようとして、でも応えきれなくて、 ボロボロになった(と見えた)学生を僕は何人か知っている。

期待に応えられなければ文字通り「期待はずれ」だから、 そういう時に限ってねぎらわれないのだ。本当に気の毒だ。

期待というのはいわば満たして初めて埋まる穴ポコ。 同じ量の土を盛る努力が、穴があれば埋めても平らになるだけ。 ひどい時は、期待が期待を生んで、 埋めた穴をさらに掘り返されることもある。 しかもさらに大きな穴を。「やってらんねぇ!!」

平らな土なら盛った分だけ山になる。 自分で盛った山を見て、「もっと盛れるんじゃないか!?」 というワクワク感が、たとえ誰かに認めてもらえなくとも、 純粋に「土を盛る」楽しみになることも。

期待なんてありがた迷惑にもなる、ということも加えて覚えておこう。

(期待をかけなければ成長しない?そんなバカなことはない。 期待をかけなければ「こちら側の望むように」成長しない ことはあっても、「本人の望むように」勝手に成長するのだ。)


アドラーはまたこう語ったという。

「あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない」

それだけ聞けばちょっと気が楽になる。 しかし、その逆も然り。

「他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない」

だから、誰かが埋めるべき穴を示してくれるくれると思わず、 絶えず「自分はどうしたいのか」を自分に問いながら 穴のないところに山を作るか、自分自身で見つけた穴を埋めて、 自分で喜びを見いだすしかない。

それは結構シビアな世界だが、 そこから得られた喜びはひとしお、である。

●関連記事 尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと

アドラー心理学について書かれた本 『嫌われる勇気』の続編、『幸せになる勇気』。 「尊敬」について興味深いことが書かれています。