「グレーを受け入れよ」!? ほっとけ!

「大人になることとは、世の中のグレーな部分を受け入れる (不合理を受け入れる)こと」

そんな感じのことが書かれていたのは お笑い芸人であるマキタスポーツの著書『一億総ツッコミ時代』。

それはそれでいい、自分で吟味して最終的にそうなるなら。

ただし、「グレーを受け入れよ」と 若い人に教えようとする人がいるならば、 僕はそれには大反対だ。

1.知的好奇心が全く満たされない

僕らいわゆる「ゆとり世代」は超がつくほどの合理主義者集団。 自分の身に起こった出来事だけでなく、 他の人の身に起こったこと、他の人が考えていること、 大量の情報を仕入れてはさばくということを ウェブを通じて毎日繰り返している。

仕入れた情報と自分の価値観を吟味して それぞれの合理的基準が出来上がる。

すると、「これは、こういう理屈でこうなるはず」 というのを実験として白黒つけたくてウズウズしているのだ。 「いきなりグレーを受け入れよ」というのに従っては そういう知的好奇心が、全く満たされない。

もちろん、自分の生活する世界において 白黒つけることができたなら、それが間違いなく 自分のスタイルになる。

2.ハラスメントの言い訳になる

「グレーを受け入れよ」「グレーを受け入れるのが大人」 という風潮があったとして、それをそのまま受け入れてしまったら その人はきっと後進に対しても「自分達がそうだったから」 という感覚で、知らずのうちに不合理を押し付けるし、 「それが大人だから」みたいなことを言うようになるだろう。

それはハラスメントのスパイラルになりかねない。

3.別に、受け入れる「必要」はない

ネットのおかげでグレーを受け入れないと 生きていけないほど、今の世界は狭くない。

(そもそも、ネットのおかげで合理主義が加速したのだけども)

無理してグレーを受け入れるくらいなら、 そういう人とは無理に付き合う必要がないくらいには 便利な世の中である。

ただ、ポイントは「付き合わないこと」と「争わない」こと。

「へぇ、そういうのもいいんじゃない」

「わたしはやらないけれど、好きにやったらいいんじゃない」

そんな感じで相手にもやりたいようにやらせておくこと。

終わりに

吟味して、最終的に(逆説的ながら)

「不合理を受け入れるのが合理的」

と自分的基準からメタ的結論に至って、 ようやく受け入れるなら、それでいいんじゃないかと思う。

ただ、そうするように教え諭すような人がいれば それには真っ向から反対したい。

(ちなみに、マキタスポーツ氏がそういうつもりで 書いたかどうかは忘れたのでまた確認します。笑)