老いてなお
「老いることができない」とか「『若者』から降りることができない」というフレーズを目にして以降、人付き合いのなかでそのようなことが頭を過ぎることが度々ある。
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「若者でいなければならない」。それはあえてネガティブに言うならば「常に自分より若い人と競争しなければならず、しかも、そこから降りられない」「そのために、いつまでも『若者』としていつまでも『可能性の中を生き』なければならない」という強迫観念に近いものだ。決して他人事ではない。
老いてなお尊敬されている、もしくは「役立たず」だと後ろ指を差されない安心があってはじめて、適切に老いることができるのでは、というようなことを考える。そう考えると、年功序列的な考え方はぐるっと回って人に老いることを「良い意味で」促進する役割を担っていたのかもしれない。
「適切なあきらめ、とでも言うべき心的状態を保って年老いてゆくことは、若い世代が自分はもうもてないもの、知識、才能、未来をもつのを許すことである」
— 東畑 開人 (@ktowhata) 2020年7月7日
ベティ・ジョセフの論文「日常生活における羨望」の一節。美しい表現だが、歳をとることの苦しさを言い当てている。
(ちょっと皮肉を込めて)誰かに安心して老いて欲しい(≒上記ツイートに則り「知識・才能・未来を持つのを許して」欲しい)と思うならば、形はどうあれ尊敬を与えなければならない。年功序列的考え方は、それを見事に形式化(必ずしも真の敬意が伴わなくとも良い)していたのだと気付いた。
ただ、いざ自分が「老いる」番になったとき、時代の変化に伴い新しいものが次々と台頭してくるなかで、年功序列だけで尊敬されるとは考えがたい。老いてなお、尊敬が与えられるとすれば、それはきっと「若者」に確かな尊敬を送ることができるようになった時なんじゃないか。尊敬を送る、その経験値だけは、今から貯めることができるんじゃないだろうか。そしてそのいつか訪れる「老い」の中にこそ、かつて自己が拡散していたのとは異なり、自分が追求すべき大事なものが残るんじゃないだろうか。