「正しさ」の取り扱いの難しさ

そう、「こだわりがあるから社会変革をめざす」「だからこそ、分裂を内包する」。しかし同時に、やはり分断を生むのは一部のインテリ(気取り)なのだろうかと思い、「インテリ 分断」と検索した。すると、以下の記事に出会った。

この記事の中で御田寺圭氏は、「分断の正体はリベラリストの傲慢さに対する怒りや反動」と述べている。

金持ちで、実家も太く、高学歴インテリで、もちろん思想はリベラルで、つねに最新バージョンの人権感覚に「アップデート」し続ける人びとが、ポリティカル・コレクトネスやSDGsといった概念を称揚し、経済的豊かさや社会的地位だけでなく、ついには「社会的・道徳的・政治的ただしさ」までも独占するようになった。その過程で彼らは、知性でも経済力でも自分たちに劣る人びとを「愚かで貧しく人権意識のアップデートも遅れている未開の人びと」として糾弾したり嘲笑してきたりしてきた。その傲慢に対する怒りや反動が、いま「分断」と呼ばれるものの正体である。

(2021年3月22日、現代ビジネス『カズオ・イシグロの警告が理解できない、リベラルの限界』より引用)

加えて、同記事の中では以下の記事からの引用も紹介されていた。

しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。

(2021年3月4日、東洋経済オンライン『カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ』より引用)

 最近ある女性から「むかしばなし」を聞いたのだが、女性蔑視に基づく(今で言うところの)セクハラがまかり通った時代を振り返ってさえ、その女性自身が「それはそれでよかった」と言うのを聞いて「ホントにそれでいいのか?!」と思わず口に出そうになったのを呑み込んだ。

 上記の「むかしばなし」およびトランプやブレグジットを支持する人々は、ある種の人権軽視のシステムでありながら、「そのシステムのうえでなら、無力な自分が、(「アメリカ人」である・「イギリス人である」・「女性である」といった理由だけで)守られる」という側面があるのならば、そのシステムを追認する人々は、「そうまでして守ってほしい」と思うほど弱く、自分で社会変革を起こそうとも思えず、追い詰められた状態(「セクハラをしても良くしてくれた男はいた」と庇うとか、「いわゆるセクハラ行為にも見返りがあった」「尊厳など考えている余裕はなく、その社会で生き延びるのに精一杯」など…)に置かれている」のではないだろうか。我々は「人権軽視のシステムにさえ、守ってもらいたいと思う人が多数存在する」という事実が何を示唆しているかを改めて考えることができる。

 「社会変革を目指すこと=分断=良くない」と短絡させるのではなく、御田寺氏も分断を招くのはあくまでも「傲慢さ」であると述べている。仮に何らかの結論に達したとしても、「変えさせる」といった傲慢なやりかたでない方法を常に模索しなければならないし、そのような方法や対話を模索することこそがむしろ、「急がば回れ」的に社会変革に繋がるのかもしれない。もっとも、私のこのような「非当事者」を自称する者よる解釈もまた、対話によって人権軽視のシステムを支持する相手が変わることを少しでも望んでいる点において、分断につながってしまうのだろうが…。