組織において、力になれないことは「罪」

あるとき職場で(普段はやらない)瓶づめの流れ作業をすることがあったときのこと。 「どう?歯車になった気持ちは?」 そんな風に皮肉交じりで先輩に言われたとき、僕はとっさにこう返した。

「きもちいいです」

普段は、その時の組織で自分が交換不可能な存在である証が欲しい、とか、 「自分の名前」でやった仕事を増やしていきたい(「この人がやった」と分かること)とか、 生意気なことを考えているのにも関わらず、「きもちいい」という感覚はあながち嘘でもなかった。

今僕の職場での立場は、言うなれば「追い回し」。 どこかの部署専属…というわけではなく、人が足りないときに色々な部署の手伝いをするというポジションだ。 性質上、主任でも補佐でもないので、僕がいないことのデメリットはそれほど大きくない。 (それ自体がデメリットだったり、メリットだったり…)

そうなると、やることがない時間がどうしても他の人よりも多くなってしまう。 僕が手伝いに入ることに連続性・継続性があれば、 教わる/教える側双方、きっちり時間をかけて教わる/教えるメリットがあるのだが、 手伝いに入ることには今のところ残念ながら連続性・継続性がない。 そういうとき、「自分にできることがない」罪悪感に襲われることがある。

「罪悪感」?

「組織において、力になれないこと(力になっていることを実感できないこと)はだ」 という意識がどこかである、ということか?

その「になる」ということ、 ・言われたことをやる ・(言われてないけれど)自分の観点や持ち味から組織に役立ちそうなことをする の二つに分類できる。

前者に関しては、すぐに求められた結果が出る。

それに対して後者はすぐに結果になるとは限らず、実際に力になっているかどうかの視認性が低い。 (ただし、後者のような状況で役立つことを確立することができれば、 それは間違いなく「その人の仕事」になり、それがその人の「居場所」になる。)

流れ作業の歯車になると言うことは、とりあえずやることがある「免罪符」を手に入れたということ。 それゆえ、その時間は「罪」から解放されて「きもちいい」という感覚になったのだろう。 ただそれはあくまで「免罪符」であっても真の「居場所」ではないのだ。

…「新人は何も考えずに言われたことをやってればいい」というのもごもっとも。 生意気かつゼイタクなのは重々承知。 ただ、やっぱり誰だって自分の持てる力、自分ならではの力を与えたいし、 時間があれば「免罪符」ではなくて「居場所」を模索したいはず。 その「居場所」、一見カッコ悪くたって何だっていい。 そういう意味では、仕事は選ぶようで選んでいないし、選んでいないようで選ぶ気持ちがある。