強いことと幸せであることは別

行為者として「強いこと」と「幸せであること」は

また別の問題だと思う。


ある一部の地方出身のケニアの陸上選手は

さいころから「走らざるを得ない」状況に

置かれているからこそ、

長距離走において無類の強さを誇る

みたいなエピソードはこれまで何度も聞いてきた。

ただ、もしも

公共交通機関や自家用車が当たり前になったとしたら、

長い距離を「走らざるを得なかった」ケニアの人たちはきっと

「なんて便利なんだ!」と喜ぶに違いない。

たとえ足が速くなる可能性が小さくなってでも、

「走る生活」は放り出してしまうのではないだろうか。

常勝チームにいる選手は、

ひょっとしたら超強力コーチ陣によって作成された

合理的と呼ばれているメニューを

こなさなければならない環境に放り込まれたことで

強くなっている可能性はある。

ただ、常にプレッシャーにさらされて

肉体も精神も消耗しながら続けるとなると、

例え勝つことができても、

常日頃から「嫌だ」という思いを募らせているかもしれない。

これまで10年以上ピアノを習ってきた人も、

忙しくなるにつれて教室に通うのをやめ、

時がたつにつれて弾けなくなる、みたいなこともある。


誰かのコントロールによって

「強くなってしまった」場合と

自分の試行錯誤によって強さを「身につけた」のとでは

また違ってくるんじゃないかと思うのだ。

そこに自分のコントロールが伴うかどうか、の違いだ。

誰かのコントロールのもとで強くなってしまった場合、

もしもそのコントロールに置かれた状況が嫌になれば、

「強い」自分をアッサリ放り出してしまうかもしれないし、

むしろ、その方が本人の幸せのためにはなるのかもしれない。

その一方で

自分のコントロールのもとで強さを身につけた場合、

それはずっと自分のものとして持続するだろう。

もし、「強いこと」と「幸せ」を重ねたければ、

やはり、自分で強さを身につけるべく、

きちんとコントロールを失わずに

試行錯誤を続けるよりほかない、と思っている。