シンプリズムも進歩の結果

「自分はどんなスタイルを取り入れるか?」

それを強く決定づけるのは、

育った環境の「ジョーシキ」がどうだったかよりも、

自身の実体験を通じた試行錯誤の結果、

何が「良い」と思ったかによるのだろう。


夢うつつで思い出したのだが、

17歳の夏、一橋大学のキャンパス見学のために

岩手・盛岡から東京・国立(クニタチ)に行った際、

「東京来た記念」に「おしゃれ」だと思って

胸に大きなスヌーピーが描かれたTシャツを、

どこにでもありそうなアメカジチェーン店で買った。

(今考えればどう見てもダサい。)

たとえ今になって「無駄だった」と思っても、

当時、「これがいい!」と思って買ったという事実は

覆ることはない。


今でこそ、夏は黒いTシャツにジーンズ、

冬はそこにオックスフォードシャツ、

寒ければそこにスウェットを重ねる

というスタイルで固定している。

(だから、僕は同じ服を複数持っている。)

「着心地がいい」「それなりに様になる」

といったことを自分で思える服を着るという、

「服を着る」ことの僕なりのひとつの本質に

たどり着いたのは、これまでに

あとから考えれば無駄だったような買い物を

何百回とやってきた結果だ。


ファッションそのものは随分とシンプルになったが、

それは「戻った」というよりは「進んだ結果」。

服に限らず、生活のシンプリズムは

やっぱり試行錯誤の結果でしか

手に入れられないような気もするのだ。

(もちろん、それを手にしたいかどうかは、

その時その人が何を大事にしているかによるから、

シンプルを押し売りすることもなければ、

派手な人たちを軽蔑することもない。)


もしも僕が親になるときが来て、

(もちろん結婚はしていないが、例えばの話)

奥さんともその考えが共有できていて、

ミニマリズム・シンプリズムに則った家庭生活を

送っているとしよう。

それでも、僕たちが伝えることができるのは、

「うちではそんな風にしている」という、

極めて狭い社会の「ジョーシキ」でしかない。


もしも、好奇心旺盛に育った子どもたちが、

「果たして、シンプルな生活は本当に良いのか?」

「生活を『飾っ』たらどうなるのか?」

とか、そういうことを考えはじめて、それらを

彼らが自分の体験を通じて検証したいと思ったら、

その過程でおそらく「反・シンプリズム」的な

ライフスタイルへの関心は強まることは否めない。

で、その結果どんなスタイルを取り入れるかは、

彼らにかかっているのだけれども、

それを強く決定づけるのはやはり

育った環境の「ジョーシキ」がどうだったかよりも、

自身の実体験を通じた試行錯誤の結果、

何が「良い」と思ったかによるのだろう。