続・情報リテラシーの話―その記事、「精神安定剤」かもしれませんよ―

ネットメディアの記事を

ライターによる「“精神安定剤”としての記事」

と見てはどうだろう。

それだけで見方が変わる。


WELQ問題」をきっかけにその信ぴょう性が

ますます疑われているネットメディア。

簡単に発信できることから、

書き手が個人であるケースも多い(ぼくもそう)。

あくまでも忘れてはいけないのは、

そういう場合、

いくら一般論ぽく語られていても、

いくら客観的に見えても、

「その人の見方」からは逃れられない

ということ。

特にオピニオン記事では

「それを書いて『得をする』のはいったい誰なのか?」

という観点を持つとかなり冷静になれる。

そうそう、あんたの言うことは分かるよ。

で、それが真実だとしたら誰が得するわけ?

・・・紛れもなく、著者本人である。

一生懸命エビデンスを集めてきては

「そうであったら嬉しい」

「そうだと仮定して、次の試みを打つことにする」

という類の著者のエゴからは逃れられない

いわばある種の「精神安定剤」的な記事も

多く存在するし、僕自身もけっこう書いている。

「これがもし、完全に論破されたらツラいだろうな」

と思う記事にも出くわすことがあるし、

僕もそういうのも書いている。

(ただ、理屈はリアルを上回ることができないから、

個人レベルでは

他人に自分の経験に裏打ちされた持論を

「完全に論破される」ということは

ありえないという点で、

現状、自由に持論を展開できるのである。)

それが良いとか悪いというのではない。

その人の経験やリサーチに裏打ちされていると言う点で、

その人にとっては間違いなく「正しい」。

しかしその一方で、

他の人にとっては「一理ある」程度でしかない。

そう、「一理ある」

それなら相手の意見を否定もせず、

自分の意見が否定されるでもない。

ただ、参考になるかもしれないし、

ならないかもしれない。その程度なのだ。


書く、と言うことの一番のメリットは

実は書き手本人に存在するんじゃないか、と

しばしば思う。

そういう意味では、

特に公正さを求められない

個人の書き手による、

個人のための「精神安定剤」的な記事に

読者が影響される理由があるならば、

影響されない理由も、キッチリ存在するのである。