もしも新入社員がアドラー心理学をかじったら

思えば、僕が「居場所」(「ここにいてもいいんだ」という感覚)を感じられたとき、 酒造りとは直接関係がない手助けで、「ありがとう」と言ってくれた人がいた。

僕はちょっと前まで、職場における「居場所のなさ」に悩んでいた。

僕は職場では新人だから、当然経験がない。 経験がなければ“brewer(「醸造家」?)の一員”としてできることも他の人よりも圧倒的に少ない。 できることがなければ、その組織にいる理由がない。 その組織にいる理由がないのに、就業時間だからという理由でそこにいる、というのは、 その「やることがない」間ずっと「自分は無能だ」という現実を突き付け続けられるような感じ。 そしてそれに伴う罪悪感でやられてしまいそうだ。

―極端に言うと、そんな風に思っていた。

そんなとき出会ったのが、アドラー心理学について書かれた『嫌われる勇気』という本だ。

その本によると、「そこに自分の居場所がある」と感じられること(=共同体感覚)こそが、 対人関係のゴールだという。

(※ここで言う「共同体」とは、組織というものにとどまらず、生きとし生けるものすべて、 さらに言えば、生き物じゃなくてもよく、さらにさらに時間軸の過去今現在のすべてを指す)

そして、「居場所」すなわち「ここにいてもいいのだ」という感覚は 共同体に対して自らがコミットすることによってのみ、得られる。 そうなると、「共同体はわたしに何を与えてくれるのか?」ではなく、 「わたしはこの共同体に何を与えることができるのか?」に問いを移行させる必要がある、という。 そういう他者貢献によってのみ、自分の存在意義を見出すことができる。 すなわち他者貢献とは 自分を捨てて誰かに尽くすことではなく、『わたし』の価値を実感するためにこそなされるもの だという。

そう知ってから、他者貢献のために自分の持ってるリソースを使わないのは、 自分の存在価値見出すチャンスをみすみす捨てているようで損である、という考えに至った。 思えば、「ありがとう」と言ってもらえた「仕事」と言えば、 酒造りの技術的なことは全く関係がないことばかり。 ただ、そこには「これなら自分にできる」とか、「次はこれを手伝ったら負担が軽くなるだろうな」とか、 そういう感覚があった。そういう想像力というリソースと空いた時間というリソースを使って。 その結果「ありがとう」と言ってもらえた瞬間、「あ、ちょっとは役に立てたかな?」と思える。 その時フッと「僕はここにいてもいいのだ」と思うことができた。

会社に留まらず、組織は(就業)時間中に(目に見える「仕事」として)やるべきこと (=何もしていない罪悪感から免れる“免罪符”)は与えてくれても、 他の誰でもない自分がそこに居て良い理由(=居場所)は基本的には与えてくれない。 それは組織の宿命でもある。

それなのに、僕は“brewerの一員としての(素人が思い描くような)仕事”に囚われていたのかもしれない。 僕が今職場で本当にやるべきなのは、自分で気づいたこと、見つけた問題点に対して、 どんなに小さなことでもいいから、「いまできることを真剣かつ丁寧にやっていく」ことでしかない、と気づかされた。 (brewerの一員としての仕事は、将来的にできるようになる(べき)仕事であっても、 いま自分が主体的にできることではない。)

「自分の気づき次第でやることなんていくらでもある」 …そう思えばちょっと気持ちが楽になる。