ないのが基準なら、あるのが嬉しいと思える。その逆も然り。

僕が大学でボート部で寮生活していたときの至福の時間。 それは、誰もいない風呂でボーっとしながら歯を磨いているとき。 それは、練習が終わった後、チームメイトとご飯を食べるとき。

これだけ聞くと、「え、そんなもんなの?」と思われそうだ。 「(そんなことが幸せだと思うなんて、)それはかわいそうに」 「どれだけ追い詰められているんだ」 そんな風に同情されてもおかしくない。

たぶん、当時の僕はそういう同情は半分だけ受けとって、 あとは「いらない」と突き返したはずだ。 なぜなら、その時は鳥肌がたつほど本当に心の底から そういう時間を楽しんでいたからだ。

幸せの基準が低ければ、些細なことを幸せだと感じられる。 プロブロガーのイケダハヤト氏は自身の著書でこのことを 「幸せの閾値を下げる」と書いていた。

ないのが基準なら、あることが幸せに思うし、 あるのが基準なら、ないのを不満に思う。

ならば、できるだけ「ない」を基準にすれば、 ちょっとの「ある」が幸せに思える。 割りと簡単に「幸せだ」と思える瞬間に出会える。

練習や勉強でひとりで一息つけるがない環境だったからこそ、 ひとりで風呂に入るという日常的なことが 楽しいと思えた。

練習漬けの日々で、なかなか娯楽に興じることが 難しかったからこそ、食事の時間に 仲間と他愛もない話をするのが楽しいと思えた。