その結果は誰のもの?―スポーツで幸せになれる人、なれない人―

僕の通っていた大学の先輩に、こんな人がいる。 もともとは太めの体型だったのが、(ちなみに、それもキャラクターだった) 何かをきっかけに一念発起?してランニングを始めた。 最後に会ったときはまだ「立派な」体つきだったのに、最近友人に見せてもらった写真を見ると、 かなりスッキリしている。 これは僕の推測なのだが、その先輩は体重の減少、スタイルが引き締まっていくこと、純粋なタイムの向上、 そういったことを、自分のためにやって、自分で楽しんで、幸せなんだと思う。

また、僕の通っていた大学には、こんな人もいた。 4年間所属していた部活の競技大会で、全国で7位に入賞した。 しかし、全国優勝を掲げるチームの方針のせいだったり、 その全国7位という結果が例年同様ということもあったりして、 チームとしては「結果が出なかった」とまとめられてしまう。 自分で掴みとった7位という結果も、なんだか素直に喜んじゃいけない雰囲気もある。 お前はこんなところで満足しているのか、と。 先輩が勝ち取った7位と自分で勝ち取った7位は違うのに。 その結果は自分のものじゃないような気さえする。

そういうとき、きっと指導者側が力みすぎている。(それに反比例して、選手は人任せになる) だから、指導者が自分の思うような結果が出なければ、前述のように「結果が出なかった」となり、 出れば「自分のメソッドが良かったから」と鼻高々だ。 そして、そのメソッドとやらを持った人が、妙に後輩にたいして発言力を持つようになるから困ったものだ。

しかし、忘れちゃいけない。 健全なスポーツにおいては、あくまで主体は選手なのだ。 選手が、その競技人生はあくまで自分のものと分かっていて、 必要な分だけ指導が「欲しい」と思ったとき(「被教育欲」があるとき)こそ、 そのメソッドは最大化される。

指導者側に立つ人は、たくさんのことを知っていて、ついついたくさん教えたくなる(気持ちもわかる)。 しかし(繰り返しになるが)競技人生はあくまで選手のもの。 逆に、選手に対して厳しいことを言えば、放っておいても指導は与えられると思わないで、 「求めなければ与えられないのだ」ということを教えるべきで、 その結果強くなればもちろん選手自身のものだし、強くなれなくても選手のもの。 そして、自分の力で強くなった喜びをつかまない限り、スポーツで幸せになることはできないのだ

・・・そういえば、全国7位のその男は「スポーツでは幸せになれなかったが、みんなとの寮生活で和やかな食卓を囲むことができて幸せだった」と言っていたのを思い出した。