善意と反緊縮

緊縮財政に対抗するのは、現場の「善意」なのだろうか?という疑問から始めたい。

 

   僕はいわゆる「ゆとり世代」かつ「デジタルネイティブ世代」だということもあり、どちらかというと「働き方改革」側に立っている。デジタルツールを使うことによって省ける手間は極力省く。「それによって生まれた余裕に新しい作業を詰め込んではいけない。余裕はあくまでも『余裕』として過ごすことで、それが本当の『余裕』になる」という持論もまた「改革」を後押ししてきた。しかも今の環境では残業代が出ないことや、ワークライフバランスを重視する観点からも、定時になったらとっとと帰る。とっとと帰って家族との時間を楽しみ、よく休み、また明日元気に出勤する。残業は家に居場所のない人がするものだ、とさえ思い込んでいた。

   今の職場では予算(from公金)の縮減により、毎年(少なくとも)一人ずつ職員が削減されることになっているし、これまでも削減されてきた。この、財政政策による人員の削減を受けて「人が少ない」効果がじわじわと効いてきている。自分がいつ辞めさせられるかわからない状態で、健全な人間関係とモチベーションを維持するのはなかなか難しいだろうな、と思う。

   僕が支持してきた「働き方改革」は「人が少ない」という現状にマッチする。「人が少ないのだから」を錦の御旗に掲げ、ムダと思われるものをどんどん削減していく。それがデジタルツール及びデジタルにまつわる自分の知識が生かされるほど、ある種の快感も伴う。そうしていくと、「人が少ない」現状に合わせていくように、作業量が減る。作業量が減ると、「やっぱり、人必要ないよね」という主張を認める材料になりうる(ほんとうは、「余裕」を作るためには余剰な人員が必要なわけだが…)。

   そうやってどんどん「無駄を削減する」ということが、結局は人件費抑制を追認することになりはしないだろうか、という疑問が浮かぶ。あえて、削減の余地があっても、(いわゆる)「無駄」を削減することなく、「そこにはやはり人が必要だ」「もっと予算を増やして欲しい」と主張する方が、反緊縮的ではないだろうか。従来の「非効率的な」方法に固執すること自体は問題だと思いながら、その方が、全体としては豊かになれるのかもしれない。

   ただ、人を雇う予算はすぐに付くわけではない。もしも、目先の、短期的な目線で人件費抑制に抵抗し、「人々により良いサービスを」と思えば、限られた人的・時間的・金銭的(予算)リソース(+余裕)を超えた部分について、現場の人間が「善意の」持ち出しでカバーせざるを得ない。しかも、人のウェルフェアには限りがない。持ち出さない理由は、基本的に、ない。対人サービスにexposedな(さらされた)現場職員が善意でカバーすればするほど、その善意が含み資産とみなされるようになり、結局予算を付けない理由になる。それが、「絆」や「つながり」といった、人間としての連帯に訴えるようなわかりやすいワードに収斂されていくのを横目に、モヤモヤした気持ちでいる。