「陰謀論おじさん」が「エラく」ない

  先日ある人から「新型コロナウイルスは陰謀だ」という感じの話を聞いた。「《みんな》は本当のことから目を逸らされて騙されている。けれどもおれは本当のことを知っている」みたいな話だったので眉に唾を付けながら聞いていた(もちろん、その話の中にも発見はあった)。話を聞くにその人はおそらく徹底した反権力論者だ。他にも多分そうした(しかし、間違いとは言い切れない)言説を信じている人は少なからずいるんだろうな、と思った。

   そんな感じの「陰謀論おじさん」はこれまでに何度か出会ったことがある。「陰謀論おじさん」は研究熱心で、よく勉強し、よく調べている。ただ、「エラく」ない。よく勉強し、調べ、コレクトネスを追求する姿勢と「エラく」なれないこととに関係があると踏んでいる。

   「マジョリティを『気づかずにいられる人』と訳す提案」ツイートが物議を醸している。それに則り、マジョリティを(平たく言うと)「良くも悪くも、(自分が困っていないから)頓着のない、ごく普通の善良な市民」だとすれば、「エラい」人の役割は、98%のマジョリティを動かすこと。人が皆同じでない以上、マジョリティを動かす(完全たり得ない)セオリーはまず「2%のマイノリティに対する配慮を欠くもの」になる(逆に、配慮がなされていないという自覚があるからこそ、マイノリティとなる)。

    また、システムが大きくなり効率化・画一化され、社会に大きな成果を生み出すほど、その裏には苦しんだり、搾取されたりする人が出てくる。安価で良質な商品・サービス提供の裏側に搾取されている人がいるという例は枚挙にいとまがない。苦しみ・搾取される一部の人や、「配慮されない」マイノリティの存在がありながら、マジョリティを動かすセオリーを時に断行せざるを得ない。「エラい」立場になるに伴う、そのような自らの加害者性に直面したとき、自らがコレクトネスに対してコンシャスであればあるほど、苦しみが増す。責められる余地を自らの加害者性の中に認めながら、それでもなお、悩み抜きなんとか共存する体力があるか、もしくは「被害者」の存在について【完全な無知】か、さらには【完全な共感の欠如】でいられる人物だけが、「エラく」なり、「エラく」いることができることになる。