なかったことにしようとするほど、意識する

「自分の娘に昔の恋人の名前をつけるって、どうかしていると思いませんか?」


そう灯里が問うと、「私もそう思います」とその場にいた人が次々に手を挙げた。

僕が連休中に見たドラマ『最高の離婚』のスペシャル版におけるワンシーンだ。

諒「娘の名前は僕が決めたわけじゃ…」

灯里「私が『薫』にしようって言ったときどうして反対しなかったの?」

諒「反対したら逆に意識している気がして…」

灯里「それが意識してるの!おかしいでしょう⁈」

 綾野剛演じる登場人物の諒の妻で、真木よう子が演じる灯里が、娘が生まれたときに「薫」という名前をつけようとした。その名前は奇しくも諒の昔の恋人の名前だったのだが、諒はそれを止めなかった。後日、ひょんなことから昔の彼女・薫(演・臼田あさ美)と灯里が電車に乗り合わせてしまった灯里はその事実を知り、諒に「なぜ私が『薫』という名前をつけようとした時に、(そうと知りながら)止めなかったのか?」と問い詰めた。それに対して諒は「それだと、むしろ(昔の彼女を)意識しているようだから」と答えたが、それに対して灯里は「それが余計に意識しているっていうのよ!」と激昂し、火に油を注ぐ形になってしまった。

 一見、視聴者からすればトラブルの種に過ぎないこのやりとりだが、僕には「反対したら逆に意識しているような気がする」というのが十分理解できる。妻がつけようとしている「薫」と、かつての恋人「薫」は名前こそ同じであれ、全くの別人だ。あくまでも夫婦関係の中に過去の恋人の存在を持ち込まないことを貫くならば、反対することは過去の恋人の存在を持ち込むことになる。それがかえって昔の恋人の存在を意識することになってしまい、それさえ避けたいがために、妻の名前の提案を止めることができない、という理屈はあり得るものだと思う。

 もし、灯里が元カノの薫と出くわすことなく、娘の名前と元カノの名前が一致していることを周囲の人間にも知られることなく、この秘密を墓場まで持っていくことができたなら、諒の「逃げ切った」形になったかもしれない。ただ、諒にとってはかなりの時間、分が悪い自分との戦いを強いられることになっただろう。なぜなら、昔の恋人と過ごした時間や記憶があるという事実は、自分の中で決してなかったことにはできないからだ。

 なかったことにはできない以上、「薫」という名前に触れるたびに、かつての恋人を、(甘美な思い出まで含むかどうかは問わない。かつての恋人が「薫」という名前だった、という程度の事実であれ)思い出す可能性からは逃れられない。


なかったことには、できない

 上の話を、先入観の話にまで広げてみたい。例えば、「差別はよくない」という類のメッセージは様々なところで呼びかけられている。そしておそらく、多くの人が「差別はよくない」ということを「戦争はよくない」というのと同じレベルで、知っている。差別と同様、あらゆる先入観や属性を取り沙汰すことによって「人を傷つけてはいけない」ということも、わかっている。匿名のSNSをはじめとするさまざまな情報源から、人が傷つく可能性はあらゆるところに存在するということを、知っている。そして、実際に「傷ついた」声をたくさん目にして知る。我々は自分にも潜在する「加害可能性」を知る。

 もっとタイムリーな話にまで広げると、何かの拍子に目の前にいる人が新型コロナウイルスに感染して回復した人だと知る。または医療従事者だと知る。または県外から来た人だと知る。新型コロナウイルスを巡っては、なんらかのカテゴリにあるだけで、偏見や差別に遭うということが実際に報じられている。

例えば、この記事では新型コロナウイルス感染後、回復した看護師が復職しても差別に苦しんでいることが書かれている。

この記事では離職した看護師のうち2割に「差別や偏見があった」と報じている。

この記事では、仙台市が県外在住者に成人式への参加自粛要請を出したことで「それは差別ではないか」と問題を提起している。


 このような記事を頻繁にするたび、反差別を標榜したい我々はやはりまた、目の前の人々の「被害可能性」を慮り、その偏見による被害を生み出す「コロナ回復者」「医療従事者」「県外からの来訪者」といったカテゴリを無視することが決してできない。むしろ、それらに囚われさえする。カテゴリを知って、反差別としての労りの気持ちを示すものであれ、だ。そのような、カテゴリのラベルが頭をよぎって以降、自然な関わりがそこなわれてしまうことになる。さらに言えば、「被災者」もそうだ。

 

 自分の「加害可能性」と、他者の「被害可能性」がずいぶんと可視化された昨今にあって、おそらく少なくない人が、自らの加害可能性を、できるだけ消し去ってしまいたいと思うだろう。自分が買ったバッグよりもうっかり良いものが見つかることのないように祈りつつ、ついウインドウショッピングを続けてしまうかの如く、ポリティカル・コレクトネスを遵守するポーズを取る。他者の粗を探して、それを叩けば、自分はさもコレクトな側にいる気でいられる。ただ悲しいことに、ポーズをとれば取るほど、「労わらなければ」「予め理解しておかなければ」という思いのあまり、「理解」を装ってカテゴリに対する先入観をインストールしようとしてしまう。個が見えなくなる。

 

なかったことにはできないが

 事実は、決してなかったことにはできない。生まれてしまった意識をなかったことにしようとすればするほど、かえって強い意識が生まれるパラドックスが生じる。なくすことができないものを、なくそうとすれば、消耗するしかない。ただし、「薄める」ことはできる。労りとか庇護とかいうこと、もっと平たく言えば「かわいそうだ」という思いさえあえて向けることのない、普通の関わりを繰り返すうちに、「薄める」ことはできる。