「そんなことで」と言い続けられる人だけが、「幸福な不自由」のなかに生きられる

 「ルールは破るためにある」などと豪語しつつ過ごしたことはなかったが、「ルール」というものがあくまでも“マス”の自律性を否定し、自由を制限するためのものであり、ときにそれが責任を逃れるために設定されるものであることを考えると、自由を得るためには「ルールを(一部)破り、しかしそれでいて自らの行動によって自律性の有効性を証明する」ということが不可欠になってくるのだと思う。だから、(程度の差こそあれ)自ら考え「ルールを破る」ということなしに自由は得られないし、「自由は争議的に勝ち取るもの」と言われてきた所以はきっとそこにある。

 三日前、ピーチ航空の便でマスクの着用拒否を理由に途中降機を強いられた乗客が物議を醸している。

大多数の人はおそらく、「マスクくらいで」とか「飛行機の中だけでもいいんだからさ…」「周りの人のことを考えろ」などと思っただろう。そのような態度が、そのような態度を他人に要求するところから、(そもそももろいのに、意志の固さによってのみ保持される)自由はまさに、硬い岩盤にツルハシを打ち込むが如く、コツコツとヒビが入り、崩されていくもののように思う。従うことが求められる「ルール」や「決まり」が、おそらく多くの場合ある程度の合理性があり、決して全く受け入れられれないレベルではない(だからこそ、ルールとして機能し、多くの人に守らせることができる)。「『それくらい』我慢すればいいのに」「私なら、それくらい我慢する」の「それくらい」積み重ねが、結果的に自らの自由の大部分を捨て、他人の自由を捨てさせることにつながっている。もっとも、「円滑な社会生活のためなら、そんな自由は捨てても構わない」と思う人が多数を占める社会が、おそらく世に言われる「日本的」「“世間”社会」と呼ばれるものだろう。その結果生じた息苦しさ、閉塞感はそれぞれが感じているはずだ。だから、治安が良い。

 切り口はどこにでもある。他の誰かにとっての「それくらい」が自分にとっては「それくらい」で済まされないとき、たとえそこにあらかじめエビデンスが用意されていなくても、いやむしろ、用意されていないからこそ、その不快感を表明し異議を唱えていくことが、「■■にまつわる自由」を獲得することにつながる。自由を得るためのこのプロセスが、不快感ー「それくらいで」と言われ、圧倒的数的不利な状況に立ち、孤独に陥り、ときに功利主義からは外れた論理で戦わねばならないーに満ちていることは言うまでもない。その不快感を味わってでも獲得しなければならないのが、自由であるならば、「争議的に勝ち取るもの」と言われる理由が分かるし、「角が立つ」などといって見過ごさず、闘うことをしない限り、「■■にまつわる自由」はあっという間に失われ、スタンダーダイズされてしまう。自由はあくまでもルール化されない。ルールを破っても大丈夫かどうかは、事後的に、既成事実によって(「ルール目的のためにマスを導く手段でしかない」ということが)示される他ない。事前に示されることがないので圧倒的不利であり、圧倒的孤独に苛まれる。それでもなお、マスク拒否の乗客を「そんなことで」と言い続けられる人だけが、「幸福な不自由」のなかに生き続けることができる。

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