すでに、学び始めている

講演会、勉強会、○○セミナーなどなど、 いわゆる「学び」の機会を与えられたとき、 その成果(「何を学んだか」)をすぐに求められることがある。 また自分がかつて他人に求めたこともあった。 「勉強会の形式として締まらないから」だ。

でも、すぐに出てくる答えは薄っぺら。 勉強会等で見たり聞いたりしたことと、その感想を出すだけだから。 その時、過去の限られた経験や知見と組み合わせて言えれば良い方。

本当の学びは「学び」の機会に触れたところから始まる。

内田樹氏は自らの著書『下流志向』で、 学びの機会に置かれている時点で「すでに学び始めている」とした うえで、こんなことを述べていた。

「起源的な意味での学びというのは自分が何を学んでいるのかを 知らず、それが何の価値や有用性をもつものであるかも言えない というところから始まるもの」

「だから、『先生、この勉強は何の役に立つのですか』 という類いの問いは愚問だ。」

その後の長い人生において、 折に触れて過去の「学び」の機会に教わったことを 思い出すことがある。

それを、「あぁ、あれはああいう意味だったのだな」という風に 自分のなかで意味付けして、「じゃあ、これからはこうしよう」 というようにその後の自分のやり方に繋げていくときこそ、 「学び」が最大化される瞬間なのではないだろうか。

だから、「学び」の機会の直後に出るフィードバックなんて、 これから生じうる気づきの量に比べればほんの一部にすぎない。

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そう思えば、いわゆる「学び」の場でなくても あらゆる経験、知見はすべて「学び」になりうる。 そして、もしその学びの機会を自分で選ぶことができるなら、 その選択肢が自分のなかで見えているのなら、 できるだけポジティブな気持ちで選べる選択肢のほうがいいよね、 というは僕の意見。 ポジティブな気持ちのほうが積極的にたくさんの機会を 取りに行きやすいからだ。

とりわけ、他に「やりたい」と自分の中で顕在化しているものが あれば、『先生、この勉強は何の役に立つのですか』と言って 集団的な学びから脱却して自己路線の学びへ進むことは 僕は愚問だとは思わない。