居場所

いい人の価値が下がる

「いい人をやめれば」的な本を見るたびに、「またまた…」と思っていたのが、「いい人(≒他人にとって都合のいい人)」でいることは確かに自分の価値を下げることにつながると考え始めた。自分の譲れない条件を死守することが、かえって自分の価値を上げるか…

がむしゃらさは 生活を守るもの なのかもしれない

ここ数年の僕にとって、がむしゃらな(実効性の薄い、ガンバっている風に見える)労働スタイルは「生活を壊すもの」だと考えてきた。それを生むようなムラ社会的考え方や・前時代的な勤労イデオロギーを心の中で非難し戦ってきたつもりでいる。しかし、最近…

やることがなくて怒るひと・植松死刑囚の主張・コロナ禍は繋がっている

「やることがなくて怒るボランティア(もしくは「気付き」によってなんでも「役に立つ」ができるボランタリーなワーカー)」「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.と「やまゆり園事件」における植松死刑囚の主張「社会的に役に立たない人間…

ムダの役割と余裕のない社会

ボランティアワークにおける、承認を得ることを目的とした仕事は無駄でも良いのかもしれない、ということを先日の記事で述べた。 ただ、仕事におけるムダはたとえそれが人々を食わせるためだとはいえ、(「より多くのムダな仕事によって多くの人が職にありつ…

余裕のある社会とはどんなものだったのだろうか

相模原事件「植松被告の論理」を、私たちは完全否定できるか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(3/4) この記事に触発されるように、先日の記事でやまゆり園事件について触れた。 「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa. 植松死刑囚は一…

仕事は無駄でもよいのかもしれない 屁理屈のはなし

ボランティア、もしくは「気付きの労働(気づいたことはなんでもやれてしまう)」におけるワーカーに対して、いまの心境ならば自分が無駄だと思っている仕事(作業)を与えることができるような気がしている。チョッピリ。 かつては(いや、今も割とそうだが…

「社会人間」になるために

学生として学校と自宅を往復する生活を送っているうちは、 勤めをしながら職場と自宅を往復する生活を送っているうちは、 それが「プロレベル」かどうか考えることなく、 「純粋に得意なこと」、「純粋に好きなこと」で 学校や職場以外の社会と関わることを…

僕は「自分の時間が欲しかったから」会社を辞めた

プロローグにかえて ―僕が会社を辞めてまで欲した「自分の時間」― 8月に入ってから、僕は会社を辞める前に 各部署の人にその旨あいさつをしてきた。 その中で繰り返し語られたのが 「自分の時間がもっと欲しいと思ったから」 というフレーズだ。 8時半には…